4)役割を自覚し、みんなで一緒に。新たにつながる
その後も2016/ project は順調に進んでいる。まず、商品の開発に関しては、参加したい窯元・商社が16社集まったので、それに合わせてデザイナー16組を起用した。はからずも「1616」である。さらにその個々に対して、窯元と商社を1社ずつ割り当て、チームとしてものづくりを進めるという体制を決めたのだった。
——目的は「有田焼を世界に」ですから、16のデザイナーも世界各地から来ています。有名かどうかだけではなく、有田でつくってもらいたいひとたちを呼んでるんですね。共同ディレクターをお願いした、1616/ arita japan のデザイナーでもあるオランダのショルテン&バーイングス、これまでも仕事をしてきたスイスのビッグ・ゲームなど、これから活躍していくひとや海外で出会う僕の同世代が中心です。ひとり大学を卒業したばかりの学生も入れたんですけど、ミラノサローネですごく面白い卒業制作のプロジェクトをやってたんですね。こういう若いひとが入ってくると、有田にはチャンスがあると思って、若い世代が各国からオファーを出してきたりするんですよ。全体がプロジェクトになっていかないといけないので、そういうバランスは考えましたね。それから、僕がデザイナーになったきっかけであるインゲヤード・ローマンは、いつか自分もインゲヤードがしているような「日常を生み出す日常」を変えていくプロジェクトができるようになったら、声をかけて一緒にやろうとずっと考えていて。それがこのプロジェクトで実現しました。
有田って多種多様なものづくりをしているんですね。だからデザイナーもさまざまなひとたちを活かして、参加すること自体がブランディングになるように、と思ったんです。2016/ project としても、いろんなデザイナーとコラボレーションすることで、有田のまちそのものを世界に伝えていきたい。16のデザイナーは見た目もキャリアもばらばらなんですけど、みんなひとつの目標に向かっているんですね。
ちなみに、柳原さん自身もデザイナーのひとりでもある。柳原さんがデザイナーをオーガナイズする一方で、百田さんがデザイナーと窯元、商社のカップリングを考えていった。デザイナーにもジュエリーを手がけるひともいれば、色にこだわったり、かたちを追究していたりとさまざまな個性があるから、それらをできる限り生かそうとしたのである。百田さんは言う。
——窯元は10軒ですが、それぞれ規模も得意とする技術も違うんですよ。商社の特性もあわせて、うまくマッチするところを考えました。柳原さんとは見方は一致してましたね。窯元も商社も、2016/ project に参加したいというところはすべて受け入れましたが、状況を改善しないとうまくいかないだろうと思う窯元もあった。そこは率直に話をしました。「今の工場では世界と戦うための設備が整わない。だから、(1616/ arita japan の窯元である)宝泉さんたちが共同運営する工場「十社」に移転しろ」と言ったんです。技術はやりながら上がっていきますけど、設備や場所っていうのはお金で解決するところだからね。会社のトップとしてその決断を迫ったわけです。彼が3日で決断してからは、その会社に合うデザイナーをと考えて、そのデザイナーを柳原さんにリクエストしたりしましたね。
県の鷲崎さんは、プロジェクトに参加する窯元や商社のメンバーはバランスがいいと思っている。重鎮と呼ばれるひともいつつ、百田さんが中心よりすこし年上ぐらいという構成だ。
デザイナーと窯元、商社の3者で行う商品開発は、窯元と商社が責任を持ってすすめている。また、今回のプロジェクトの場合、型代などの開発費はすべて窯元が負担し、商社も新会社を設立したり、事業投資を行っている。行政が入るプロジェクトでは珍しいが、あえてそうして開発のリスクを負う状況をつくったのである。
窯元も商社も真剣だったものの、外国人と仕事をするのは初めてだし、慣れない英語を使ってやりとりするのだから、緊張するし苦労もあった。それをわかったうえで、柳原さんは商品開発のやりとりにとどまらず、デザイナーたちをどうもてなすかもそれぞれに任すようにしていった。柳原さんは言う。
——窯元や商社のひとたちは最初はぎこちなかったです。県のプロジェクトだから全部用意してもらえると思っていたかもしれないんですけど、それは違うと思っていて。たとえばデザイナーさんが初めて来たときも、県が主催して食事をセッティングしていて、窯元や商社のひとたちもお客さんみたいになってしまったんですね。でも、有田のひとたちはお客さんじゃなくてもてなす側だから、受け身で取り組むのではなく、自主的に、積極的に関わっていってほしかった。
今では、場所とかスケジュールをみんなに決めてもらってます。デザイナーの送迎などもみんなで空港に迎えに行って、ごはんをアテンドして、もてなしたりしてますよ。最初は英語も話せなくて緊張していたけれど、今はそれぞれ勝手にドライブに誘ったりして。英語も勉強し始めて、自分たちでやりとりしてるんですよね。
デザイナーにはすでに全員来てもらってますし、これからもまた来てもらうんですが、ホテルを用意するのではなく、「小路庵」といって、まちが管理する古い家を改装した建物に滞在してもらっています。虫が出るとか、完璧じゃないサービスをみんなで埋めてる感じです。デザイナーは世界で活躍しているような忙しいひとたちなんですけど、みんなのホスピタリティも含めて、「ここは特別」と思ってもらえるようなプロジェクトでありたいんですね。
取材の際もデザイナー数人が滞在していたが、デザイナーと窯元、商社は行動をともにし、昼の食事も夜の飲み会もわいわいと楽しそうにしていた。特に夜の飲み会では、翌日は佐世保に回転寿しを食べに行こうと誘うなど、いかに滞在を楽しんでもらうか、自然なもてなしをしているようすがとてもいい感じだった。
ちなみにこの時来日していたデザイナーはジュエリーのサスキア・ディーツに、大学を卒業したばかりのカースティー・ファン・ノート。それにクリスチャン・ハーズに女性のデュオ、クーンカプートなどだ。それぞれを担当する窯元は、サスキアには細かい仕上げの得意な畑萬陶苑、また実験的に自分でつくるカースティーには、幅広く対応できる瀬兵窯。ヨーロッパでテーブルウェアの経験豊富なクリスチャン・ハーズには、1616/ arita japan に参加した実力派の宝泉窯。ニューヨークなどでギャラリーと契約し、アートワークを繰り出すクーンカプートは、こちらも1616/ arita japan に参加し、色の吹き付けでは右に出る者のいない錦右エ門陶苑、という具合だ。
そしてもうひとつ、商品開発をしっかり支える存在がある。県の窯業技術支援センターだ。まちのひとたちもその場所があるのは知っていても、何をやっているか、自分たちにどう関わってくるかはよく知らなかった。柳原さんは言う。
——技術支援センターでは、最先端の技術を実際の商品にどう使えるかについて、実験しながら考えてくれるんですね。僕らはプロジェクトでやったことがないことをやるので、今はみんなでそこのサポートを受けていて、毎日のように行っている。3Dプリンターでできるかどうかを検証したり、色の検証をしたりしてますね。古いものと新しいものの融合ですよね。
技術センターの方たちも、それまで窯元に施設の意義をなかなか理解してもらえなかったけれど、今ではすっかり仲良くなって、みんなで飲み会を開いたりしてますね。新しいチャレンジをしようとしてたりして、いい感じです。
2016/ project のプロジェクトを通して、それまでつながっているようでつながりのなかったひとたちが、線で結ばれていった。個人でできることとはまた別の、新たなつながりがあればこその可能性とそれぞれの役割。プロジェクトに関わるひとたちは、そのことに気づいたのだった。