アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#39
2016.03

「伝える言葉」をさぐる 「ただようまなびや」の取り組み

後編 想像力を引き出すために
1)未然の言葉

日常の営みとして、我々は言葉を求める。これだけの量の情報が流出され、それがすぐ手の届く環境にいると、利便さはあっても、ますます複雑化する日常の本質を把握も処理もできず、我々はつい誰かの言葉にすがりついてしまう。それにより現況を理解し、頭の整理がついたと思い込み、早く次へと進もうといった気持ちにかられる。
震災といった惨事になると、なおさらだ。なぜこんなことになってしまったのか? この原因はどこに、責任は誰にあるのか? と白黒をはっきりさせるため、マスメディアなどを通じて、事情を了解すると思われる第三者に意見を求めたくなる。
だが震災の直後、そのマスメディアの取材を受けた古川は絶句した。

「あんなものは、言葉では表現できないと思うんです。社会の一部として、ある種命名がなされたことは、我々も言葉で表現できますよね。日本語で表現できるというのは、日本人が認識し、日本の社会に受け入れられることだけです。それ以上のことが起きると、それはもう言葉では通用しないんです。本当に通用しないから、言葉はないと僕は言った。だけど、後出しでそれを批判するひとがいるわけです。文学者はみんな黙っているだけだった、絶句するとしか言えなかったとか。
言葉になる以前のものの大きさとか、それをどこまで考察するかとか、発酵させるってことが大事なんです。その場で言葉が出なかったから、言葉を持たなかったとかじゃない。たとえばこの被災地の現場にいたひとたちは、ものすごい量の言葉になる以前の言葉を持っているはずなんです。だけど、それを引き出してくれるひとが誰もいない。あなたたちは福島県人だから、全員原発反対でしょ? とか、そういうことを言ってください、みたいなことばかりで。だから、郡山の知り合いや友だちが、いや、楽しく生きてるよとか、笑ってるよ、放射能がなんとかって言われるけど、ジョギングしまくってるとか言っても、あんまりちゃんとは受けとめられない。強引に引きだされる言葉じゃない、未然の言葉が大事だと思うんです」。

期待や思惑通りに、相手が語ってくれない。古川の言う「受けとめられない」とは、人間が理解するキャパシティを超えているからではないのだろう。忙しない状況にかまけて、我々は知らない間に自ら考えるキャパシティに蓋をしてしまった。そしてこうした閉塞した状況は、すでに震災以前から始まっていたと古川は考える。