9)想像力がもたらしてくれるもの
古川を筆頭に、「ただようまなびや」に集結する作家たちは、創作活動において必要不可欠なものとして想像力を起動させる。だがもちろん想像力は、彼ら作家だけに存在するものではない。「ただようまなびや」で学ぶひとたちも含め、我々は意識し、あるいは無意識のうちにこの力を日々使っている。
2日目の最終授業であるシンポジウムでは、その想像力がテーマとなった。今回の教室の中でも最も広いスペースの壇上には、古川、柴田、川上未映子やアメリカ人作家のレアード・ハント、そしてサプライズ・ゲストとして名を連ねた村上春樹が並んだ。
「想像力とは要するに、先入観、ステレオタイプを壊してくれるもの」
古川はそう語った。人々を枠へ収め、閉じ込めようとする規範に対し、自身だけに内在するものを引き出す想像力は、自ずと他者とは異なる性質を帯び、そんな枠を突破すると示した。
こうした公の場にほとんど出ないだけに、村上春樹の発言には注目が集まり、満員の会場も水を打ったように静まり返った。「自分が書きたいから書く」と自発性に言及した村上は、小説のために使う想像力は孤独なものであり、それを“ひとりでカキフライを揚げるようなもの”と喩えて、会場から笑いを誘った後に、規範について別の角度から言葉にした。
「子どもというのは、想像力は活発ですよね。でも、みんな子どものときの想像力を多かれ、少なかれ、失っていく。というのは、それ以降持っていると、いろいろなことができない。想像力ばかりでいるから。だからなるべく、自然に封印していくと思う」
だが大人になっても、想像力を動かすことができる。さまざまな知識や経験を得て、歳を重ねてコントロールできると語った村上は、「身につけるものではなく、自分のなかにあるものを掘り起こすこと」と想像力を定義づけた。村上による定義は、記憶などの人間の内面に定着、沈下したものをもう一度引き出し、咀嚼、あるいは教訓とするとした古川の話と共通するものがある。
“掘り起こす”作業は、時間を要する。自分以外の誰かが代わりに答えてくれるわけでもなく、お仕着せや間に合わせの言葉で埋められるものでもない。日常の喧噪から距離をおき、自分というひとりの人間を見つめ直し、じっくりと生きていくための意義や価値を考える、そうした手間をかけることで獲得できるものなのだろう。
そのときふと、今回の「ただようまなびや」の開校式での古川の言葉を思い出した。宙に「あ」を描いた古川は、このひらがな一文字にも「書くためには、横があって、縦があって、ぐるっとまわって曲線が全部入る」ことを、ひとは忘れがちであると説いた。こうしたプロセスを効率の悪さと見なし、即時的なコミュニケーションが優先され、生活空間で無意識のうち、あるいは自動的に言葉を発せられる現代で、我々は我々にとって必要な何かを失いかけているのかもしれない。
「ただようまなびや」は、講師となる古川たちの導きにより、実際に表現に携わることで、失いかけている必要な何かを探し当てる時空間である。自らの手で見つけたその“何か”が、知らなかった自分、気づかなかった自分に引き合わせてくれ、硬直化し、窮屈さに苛まれる今の状況から我々を解き放してくれる、そんなふうに思えてくる。