7)祖母、母、娘 つながる手づくり
最初にも書いたように、行司さんはもともと、手を動かすことが好きで、小さいころはさまざまなものをつくっていた。行司さんのおばあちゃん、お母さんの美知子さんも何かしらつくるのが好きだったから、当たりまえのように針と布を手にしたのだろう。育った家庭環境は大きかったと思う。
直接の影響を受けたのは、お母さんよりも、むしろおばあちゃんのほうだった。おばあちゃんは明治の生まれで、東京で書籍出版業をしていたおじいちゃんと結婚し、戦中まで神田で暮らしていた。和裁が得意で洋裁も好きだったから、美知子さんや、美知子さんの姉妹に、当時は珍しかったスリーピースなどもつくったりしていたという。
奈良へ疎開する際にも、荷物が制限されているなか、手縫いの服を忍ばせていたようで、おばあちゃんが亡くなり、家を片付けたときにその服が出てきた。愛らしい4着の服。美知子さんが小学校に上がるころに、美知子さんとお姉さんや妹さんに縫ってくれたものだ。
——戦前につくった服だそうで、全部手縫いなんですよ。わたしはとても手縫いなんてできないので、すごいなと思いますね。こんな生地を手に入れるのも、そのころは大変やったかと。ボタンが上だけ違うのも、きっと足りなかったんでしょう。
祖母とは一緒に住んではいませんでしたが、家が車で15分くらいのところだったので、しょっちゅう行き来してました。とても手先の器用なひとで、いつも何かつくってましたね。自分で着る服もオーバー以外、ワンピースやスカート、ブラウスなど全部つくっていました。セーターも編んでましたし。
おばあちゃんの若いころ、大正や昭和初期は、まだ既製服がふつうに売られていない時代だったから、洋服は自分でつくるもの、あるいはお願いしてつくってもらうもの、という感覚だったと思う。そのなかで、洋裁を習ったことのないまま、本などを見てつくっていたというから、好奇心旺盛で、素晴らしく器用だったのだろう。ちなみに行司さんもそうだが、美知子さんもまた、和裁洋裁ともに習ったことはない。行司家はみんな独学なのだ。
——母も祖母も、基本的に家族のためにつくってました。売るとかそんなんじゃなく。服がつくれるというのは祖母や母から自然と教えてもらって、自分のなかに刻まれていたので、家を建てるとかそういう突飛な感じはなかったですね。服をつくる、手芸をするというのは、わたしにとって、ごはんをつくるように無理のないことでした。
祖母がつくってくれた服はわたしも母も着てました。でも既製服も着てたから、今みたいに、つくった服を着ている割合が大きいわけではありませんでした。小学校までは母もわたしにつくってくれて、それを着て学校に行ったりしたんですが、手づくりの服が嫌で「既製服」に憧れてました。“もっさい”感じがして。今はありがたいと思ってますけど。ごはんやお菓子も手づくりで、それがすごく嫌で「冷凍食品」がかっこいいと思ってました。
行司さんの幼いころの写真を見せてもらったが、おかっぱ頭にしてリボンを結び、ワンピースを着ていて、本当に可愛らしい。美知子さんいわく「経済的なことと、自分の趣味に合わんものは着せたくないという気持ちから」服をつくっていたから、行司さんが小学生だった1970年代から80年代、「みんなと同じ」既製品がよしとされた時代に、子ども心に手づくりが“もっさく”思えるのもわかる気がする。個性的なものは、このころの価値観では受け容れられなかったから。
ただやはり、あらためて思うのは、行司さんがマギー・チャンのチャイナドレスを見て、衝動的につくってしまえたのは、「おかずをつくるように服もつくる」という、行司家の当たりまえがあったからではないだろうか。
ちなみに、行司さんが今使っているお裁縫箱は、おばあちゃんからお母さんを経て、行司さんが譲り受けたものだ。そして、おばあちゃんと同じように、行司さんも洋服をつくる以外にも、身につけるものの大部分をつくってしまう。セーターやマフラーなどの編み物もするし、アクセサリーもつくる。どれもすべて、服づくりと同じ感覚やっている。
——ピンクのマフラーは、旅の思い出になると思って編んでるんです。バルセロナに行ったときに、おみやげは何もいらないと母が言うから、まちの毛糸店で買った毛糸を使って。服づくりも編み物も、アクセサリーつくるのも、どれも一緒。ただほんまに好きで楽しいんですよね。
行司さんの自宅には「開かずの間」がある。そこには、行司さんの買い集めた布やボタン、リボンなどの材料がしまわれている。ヨーロッパなどの旅先でも、必ずまちの手芸屋さんに立ち寄り、買い集めているので、いつしか膨大な量となってしまった。おばあちゃんのつくった服なども紛れこんだその空間は、行司さんの手づくりにまつわるあらゆることが、流れた時間も含めてつまっているようにも思えた。