3)輪島の土蔵修復プロジェクト(2)
築かれた、ゆるぎない信頼関係
現在、修復作業はひと段落したものの、昨夏も土壁づくりのために30名近くがボランティアで集まり、その活動は今も継続中だ。そばで見守りつづける紀一郎さんは地元にとってもなくてはならない存在となっている。
修復した土蔵のひとつ、大崎漆器店の塗師蔵を訪ねると、四代目大崎庄右ェ門の大崎四郎さんがわたしたちをあたたかく迎えてくださった。創業は江戸末期、建物は国の登録有形文化財である。玄関から奥へとつづく長い土間を通り、仕事場へ。ちょうど仕事場の下屋(トマエ)では、料理屋で使われている漆器のメンテナンスが行われているところだった。漆器は手直しすれば、半永久的に使い続けられる。愛用する方々とは、代々の長いつき合いになる。
塗師蔵はごっそりと土壁がくずれていたが、幸い木構造や屋根に致命的な被害はなく、伝統的を守る塗師屋にふさわしく、土蔵も伝統的な手法で修復された。土壁を落として運び出すところから始め、粘性のある三井の土に藁スサを混ぜて適した土をつくり、しっかりとした小舞をつくり直し、土を練って団子にし、小舞に投げつけてならす。冬期は乾燥させ、壁を平らにするなど、多くの過程を経て、およそ1年半に及ぶ修復が修了した。長きにわたるゆえ、修復中も塗りの作業ができるよう、土蔵の中には仁行和紙で入れ子状の部屋をつくっておいた。今もその名残がある。
漆を焼き付けた金属製の扉は、創建当初のものだ。夏場、泥だらけになってつづけられた、有志による修復作業により、塗師蔵がよみがえり、あたりまえに作業がつづけられていることに、感動を覚える。修復に関わったひとたちと、地元に根ざすひとたちの間に、ゆるぎない信頼関係が築かれたことが見て取れた。
もう一ヵ所訪ねたのは、七尾邸の土蔵だ。敷地内の母屋に暮らすご主人もわたしたちの見学を歓迎してくれた。かつて塗師蔵として使われていた土蔵は、木構造も大きく傾き、ジャッキアップして基礎を補強するところから修復が始まったという。計画当初は、地元の食と器をテーマにした利用も検討されたが、現在も、輪島土蔵文化研究会のワークショップやボランティアの宿泊など、活動の場として活用され、庭に石窯をつくるなど、七尾さんの協力の下、今も学生たちの実験的な試みが続く。「若いひとたちが定期的に来てくれて、使わなくなっていた塗師蔵に活気が戻るのは、とても嬉しいことです」と、七尾さんは笑顔で話してくれた。能登最大の祭り、夏のキリコ祭りの時期は全国からかつてボランティアで来てくれたひとたちが集まって大いににぎわう。地元のひととボランティアの交流も、お互いの得難い経験となっている。
七尾邸の土蔵がこうしてパブリックスペースとして活用されるほか、修復した蔦屋漆器店の塗師蔵はギャラリーに、日干しレンガを活用した古窪邸の元塗師蔵はピアノなどのライブに活用されるなど、回遊性のある新たな街づくりへもつながっている。左官職人を育成する取り組み、土蔵を活用した将来的な発展性などが評価され、2012年、活動の中心であるNPO輪島土蔵文化研究会は、第5回ティファニー財団伝統文化振興賞を受賞した。
——修復や再生に関わってきた土蔵は10棟ほど。地震を機に解体撤去されたのは倉庫も含めて600棟以上ですから、極めて微力です。それでも、少なくとも数棟を保存に導けたこと、多くの方々が多大な力を注いでくださったこと、活動を通じてさまざまな人々とつながりが生まれたことに感謝したいですね。そして、また、活動を記録に留める必要性も痛感しました。今後のためにも交流をつづけ、まだ能登の修復も完了に至っていない土蔵もあるのですが、東日本大震災の被災地など、他地域の土蔵修復の力にもなれたらと思います。
身近なものを見直し、受け継ぎ、伝える。紀一郎さんの土蔵修復への姿勢は、本誌前編(28号)で紹介したまるやま組のスタンスにも通じる。窮地から前進してきたその経験は、関わったひとみんなの、次へつながる糧となっている。