7)手の実感と、ありのままに在る「たしかさ」と
三谷さんのものづくりの過程を、木工を始め、フェアを立ち上げ、そして立体作品や絵を手がけるようになり、さらには時代が三谷さんに追いついた2000年代半ばまでを取りあげてきた。
あらためて思うのは、三谷さんのものづくりはまったくぶれていないということだ。「ぶれない」ことは、素晴らしい作り手や届け手に共通する姿勢でもあるのだけれど、三谷さんはとりわけ、目でよく見つめ、手を動かすことからすべてを生み出してきた。うつわや道具はもちろん、絵も立体作品も、そして言葉も。頭で考える理屈ではなく、手の実感なのである。
ひとの暮らしの根本の根本まで立ち返り、自身と向き合ってきた時間があってこそ、三谷さんは「ふつうの生活」に深く根ざしたものづくりを始められたのだと思う。三谷さんの手によるものたちは、暑苦しい「表現」のようなものからは、遠く自由だ。奇をてらうことなく、素直にある。冒頭に書いた、三谷さんのつくるものがもつ「何か」は、一周回ってたどり着いた「手の実感」と、ありのままに在る「たしかさ」なのだと思う。
共感できる仲間たちと手をたずさえて、新しいことを始めてきたけれど、そのときの主語は決して「わたしたち」ではない。関わる個人ひとりひとりが、個として寄り添いながら、ものごとを進めていく。それもまた、三谷さんらしいスタンスだ。「ひとりひとりが自立している」ことは、その後の三谷さんの活動においても、いっそう大切になっていく。
後編では、いかにして、人と人、人とまちをつないでいくのか、三谷さんの2000年代から現在までの活動を見ていきたい。そこで行われているのは、流行のソーシャルな「まちおこし」などとは似て非なる、地に足のついた取り組みである。