3)しょうぶ学園のものづくり哲学
しょうぶ学園はどんな考え方で活動に取り組んでいるのか、施設長の福森伸さん、副施設長の福森順子(のりこ)さんにうかがった。福森伸さんは最近福祉施設の関係者に、知的障がい者にとって働くことの意味とは、という講演をしたばかりで、話もそこから始まった。
———知的障がい者が持っている価値観は僕らとは違います。僕らが働くのはなぜかというと、お金だったり、名誉だったり、やりがいだったり、何かを獲得するために苦しいこともこなしていかなければならない。でもそれがないひとに頑張って働けということは、ありえないんです。
だけど、支援者にとっては、健常者のようにお金を稼いで自立することが、障がい者にとっても幸せなはずだという考え方はとても強いんです。布をまっすぐに縫えないひとにまっすぐ縫うように指導するとか、できないひとにできないことを教えて、彼らは本当にハッピーなのか、考えなければいけない。
福森伸さんに初めて会ったひとは、そのポジティブなエネルギーに魅了されるだろう。お話を聞くうちに、こういうひとがいてこそユニークなものづくりが生まれたのだな、と納得してしまう。
———だから、彼らにはできることをやってもらうのがいいんです。曲がって縫うのであれば、思いっきりやればいい。それが彼らにとっての幸せ。そこを伸ばしたら、結果的にアートといわれるところにたどり着くひとが出てきた。でもたどり着かないひともいます。アートに当てはめているのは僕たちの価値観ですから。
しょうぶ学園が設立されたのは1973年。福森さんの両親が知的障がい者の施設を開設した。伸さんは日体大を出て、アメリカ放浪などしたのち、鹿児島に戻ってきた。木工に興味があり、1985年に学園で木工工房を始める。そのころは福祉施設で自分がするべきことを求める試行錯誤の日々であった。
———木彫りを教えたら、木の器を全部木屑にしてしまって、「終わった」と言われたときは愕然とした。僕は今まで彼らに何を求めていたんだろうって。僕らの考えていたことと全く価値観が違う。全部木屑にして喜んでるんですから。
当初は工房でも社会復帰を目的にした職業訓練をしていたが、福森さんは彼らのためのものづくりのやり方とは何か、真剣に探し始める。そのきっかけは思わぬところからやって来た。
その頃のことを、布の工房を担当していた、福森さんのパートナーである福森順子さんはこう語る。
———設立当時より、大島紬の織り作業や枕カバー制作の下請けをしていました。85年に「工房しょうぶ」を立ち上げた頃には紬業界も下火になってきたこともあり、織り作業を裂き織りを中心とした活動に移行していき、下請けをやめることにしました。他の方々は布に刺し子のようにまっすぐに縫ったり、下絵の通りに縫えるように指導していきました。
あるとき、ある施設利用者にまっすぐに縫うように指導していた順子さんが席をはずしている間に、糸目があちこちに飛んで出て糸の塊まりが飛び出していた布をつくり上げたのを見て、どうして「まっすぐに縫う」のかわからなくなった。そこで「好きにやっていいよ」と言ったところ、ユニークな「表現」が生まれた。
———最初は「こんなんでいいの?」って不安そうな感じで下を向いていたのが、「好きにやっていいから」と言い続けていくと、「こうできましたよ!」ってだんだん顔が上を向いてきて自信が見えてきて、そのほうが彼らの自信になるなら、生活面でも自信が持てるんじゃないかと思ったんですね。わたしも園長も手仕事が好きでやっていたのですが、美大を出ているわけでもないので、(できてきたもの)に最初は戸惑いました。
それが90年代初めのこと。そこから誕生したのが表現としての刺繍作品=ヌイ・プロジェクトであった。福森伸さん、順子さんというものづくりの好きな二人がいたからこそ、木工と刺繍がきっかけとなって、学園のオリジナリティが確立されていったのだ。