1)「まちっ子」が選んだ「引っ越し先」
——トウヤマタケオさんに聞く(1)
案内人を買って出るように、坂道にひしめく民家や石垣の合間から顔をのぞかせる猫たち。彼らに導かれつつ尾道の山手を歩いていると、遠くからかすかなピアノの音が聞こえた。その旋律を伝い、音の生まれる方へ近づいていくと、線路そばの石階段に面した白いルービックキューブのような建物にたどり着いた。音楽家のトウヤマタケオさんは、空き家だったこの一軒家を購入し、2013年の春、家族と共に「引っ越し」した。長らく音楽活動の拠点としていた大阪を離れるという大きな決断。そのきっかけは、何だったのだろう。
———最大のきっかけは、やっぱり2011年の3.11ですね。いろんな意味で考えさせられたじゃないですか、自分の生活について。僕らは大阪に住んでたんで、食料も普通に流通してるし、家が壊れたわけでも何でもないですけど、関東ではいとも簡単に生活がぐらつく経験をした身近なひとたちがいて。そんななか、原発事故で放射能汚染された瓦礫を大阪市が受け入れて焼却炉で焼くっていう話が出たんです。で、僕もその反対運動を少し手伝ったんですね。署名運動をしたり、関西電力の本社前でデモをしたり。でも結局、受け入れが決定しちゃった。その時、お尻に火がつきました。子どももまだ小さかったんで、これは大阪も安心してられないと。
震災当時、46歳。年齢を重ねれば誰もが感じる体力・気力の変化を前に、「50歳までには先を見据えたアクションを起こさないと」と折に触れて夫婦で話していた時期でもあった。妻のなおみさんも、共同経営していた「チャルカ」という東欧雑貨店を退き、靴職人として再出発することを決めていたので、音楽アトリエと靴工房と自宅を1ヵ所にまとめようと、「買える一軒家」を探して土地の安い地方に移り住むことを決めた。親が転勤族だったトウヤマさんはそれを「移住」と呼ばず「引っ越し」と呼ぶのだが、その引っ越し先として候補に挙がったのが「市電のあるまち」だった。
———岡山、広島、松山。あと高知もいいなあ、とか。市電が何を意味するかというと、まず都市機能があるということなんですよ。都市機能はありながら、でも市電を廃止するほどではない、余裕のあるまち。それぐらいのまちがちょうどいいなっていう話をしてて。移住っていうと極端な感じがするじゃないですか。農業始めたい! 田舎で開墾してます! みたいな。でも2人とも「まちっ子」なんで、そこに行く勇気もないし、行ったとしても挫折するのがわかってるし。僕は地方に呼ばれて演奏することが多いので移動さえ億劫にならなければ大阪や東京じゃなくてもよかったし、奥さんも靴をつくるなら場所を選ばないので、これまでの自分たちの生活の質を保つことができるならどこでも、というのが僕らの考えでした。
引っ越し先を決める際、「移動と交通」の手段は誰にとっても重要なポイントとなるが、トウヤマさんたちの場合、まちっ子としての生活リズムをぎりぎり確保する基準として、具体的に「市電」を挙げたところが興味深い。ところが、そこまで明確な基準を設定しても、なかなか引っ越し先は決まらなかった。
———不動産が、ない。買えるようなのが、ない。実際見に行ったら、市電のあるまちは大阪とあまり価格が変わらなかったんです。もちろん中心地から離れれば安いですよ。でも地方に引っ越したうえ、さらに遠くへ行くとなると、駅や空港に出るだけできっと疲弊してしまう。どうしたものかと思っていたころ、「AIR Onomichi」の三上清仁さんと小野環さん(尾道でアーティスト・イン・レジデンスを運営。詳細は8月号にて紹介)に呼ばれて、尾道の山手にある光明寺會舘というところでライブをしたんです。その帰りに、洋室のついた青い三角屋根の家を見かけて。わあ、かわいい家、と思って見てたら、一緒にいた地元の子が「あれ貸し出してますよ」って。「いくら?」「1万5000円くらいじゃないですか」「えーっ!」みたいな。家に帰ってすぐ奥さんに話したら、彼女も「えーっ!」って。それまでノブエさん(信恵勝彦さん。尾道のCDショップ「れいこう堂」店主。詳細は後述)に呼んでもらって尾道には4回ほど演奏しに行っていたし、三上さんと小野さんを通じて「尾道空き家再生プロジェクト」(通称・空きP。尾道の山手の空き家を中心に再生・斡旋するNPO法人。詳細は8月号にて紹介)の豊田雅子さんも知っていたので、奥さんがすぐ連絡して。そしたら次の土日に空き家の見学会があるから来てくださいと。それで、とりあえず彼女ひとりで見に行ったんです。