今月から、3号連続で広島・尾道を取り上げます。
海と山のあいだで、独特の文化を育んできた由緒あるまちも、過疎やまちの空洞化などと無縁ではありませんでした。けれども、このまちにはものづくりするひとをはじめ、自身の生き方を模索するひとたちを惹きつける風土と、それに根ざした動きがある。そこからさらに、有機的な活動も生まれています。
尾道で、何が起こってきたのか。音楽やアートを通して、ひととまちがつながり、変わりゆくありようを見ていきたいと思います。
「かろやかな離合集散」がもたらすもの
広島県、尾道。おだやかな瀬戸内海のちょうど中央に位置するこのまちは、古くから年貢米の積出港、勘合貿易の拠点港、北前船の寄港地などとして栄え、由緒ある古寺や明治期の豪商たちが建てた邸宅がひしめく山手の景観とあいまった、風光明媚な場所として知られてきた。昭和期になると、林芙美子や志賀直哉ら文豪が暮らした「文学のまち」として、また小津安二郎や大林宣彦ら映画監督が作品の舞台に選んだ「映画のまち」としても有名になり、作品ゆかりの地を巡るひとが絶えない一大観光地ともなった。
そんな尾道のある意味固定されたイメージに新しい風が吹き始めたのは2000年以降のことだ。「ライブハウスもない尾道になぜか実力派のバンドやミュージシャンが呼ばれて盛り上がっている」という話を耳にするようになるのである。それは、地元のとあるCDショップの店主がたったひとりで始めたことだった。そのうち、過疎化で廃墟寸前となった山手の邸宅群を守ろうとたったひとりで空き家再生に乗り出す女性も現れ、「尾道には名建築の空き家がたくさんある」との声も届くようになる。それらの空き家は、ミュージシャンやアーティストなど創作活動をする人々を移住や滞在というかたちで呼び寄せ、「尾道の音楽シーンとアートシーンが面白い」という潮流となってこのまちに養分を運んでいる。山海の豊かな自然、都市との接続を断つことなく暮らせる文化的な素地がひとを安心させるのか、2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故を機に移住の流れはさらに加速。一般の家族も含め、尾道への移住希望者は年を追うごとに増える一方だ。
尾道には「ひとりでも始めてしまうひと」が多い。そのことが、個人の自由を縛らない「かろやかな離合集散」を可能にし、都会に限りなく近い「まちの多層性」を許している。その姿は、音楽やアートのある場に個々が集い、思い思いに楽しみ、終わればまたそれぞれの場所に帰っていくさまにも似ている。なぜ尾道に「ひとりでも始めてしまう文化」が生まれ、「まちの多層性」を許す土壌が育ったのか。必ずしも定住には直結しない「かろやかな離合集散」は、そのまちにどのような果実をもたらしうるのか。尾道に関わる人々に話を聞きながら探ってみたい。
1)「まちっ子」が選んだ「引っ越し先」——トウヤマタケオさんに聞く(1)
2)尾道を背負ってもいいし、背負わなくてもいい——トウヤマタケオさんに聞く(2)
3)音楽が育てた「ひとりでも始めてしまう文化」——信恵勝彦さんに聞く(1)
4)「素通りのまち」にはしたくない——信恵勝彦さんに聞く(2)