アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#52
2017.09

横道と観察

後編 細馬宏通 × ほしよりこ 対談 
6)ありそうでない設定
「人情劇にはならない “距離” がある」(ホソマ)

細馬 いろんなことが、今までのマンガに当てはまらへん。家族のクールなような飛ばしてるようなところもそうやし、でも最後に夫が、妻に対して突然ええやつになったりするところもそう。まああれはまだひと波乱ありそうやけど。ああいうひとたちが出てくるって、もしかして、ほしさんの基本的なひとの見方と関わっているのかなって。

ほし なんかそういうひとたちに対して興味があるんだと思います。
『逢沢りく』でインタビュー受けたとき、「ストレートに話さないじゃないですか、でもストレートに話せばいいってわけじゃないですよね」って言われて気づいて、すぐに「ストレートに話せばいいんですよ!」って答えてて。思ったことをちゃんと聞けばいいってことなんですよね。この話のなかで母親父親があんな異常なひとたちだから、りくはあんなふうになったんだっていう声が大きいですけど、実はみんながやってることやな、と。だからって、言っちゃえばいいってもんじゃなくないですか、ってことを納得し合うんですけど、えぐればいい。ふつうに言ったら話は早い。5分で終わることを何ヵ月もかけていたりする。みんな空気が読めないとか、推し量らないといけないとか、それが大事なことみたいにしてるんだけど、物事はもっとシンプルにできる。

細馬 物事をシンプルにするってこのおばちゃんみたいやな。ものすごいたくさんしゃべるじゃないですか。頭に思いついたことを検閲なしで全部言っていくと、小鳥を目の前にしてかしわとか言うし、ダジャレもいっぱい思いつくし。あのいらんことをいっぱい言っていくのは、この作品を読んでいてパラダイスみたいな感じがするよね。圧はあるけど。口数は多いけどシンプルなの。あの独特の裏表のなさってありますよね。

ほし おばちゃんはひとりでいてもずっとしゃべってると思うんですよ。「ガス消したかな、どうやっけな、今日消したっけな、あー消したわー」ってひとりで言ってる。見たままのことを「おっきいコップやな」とかすぐ言う。

細馬 言語化できるものは全部言語化しちゃう。

ほし 言って自分で納得して自分で収めるっていう。誰に聞いてほしいとかもないけど言う。

細馬 ふつうのひとは、ストレートにものを言おうと思って自分の身体に起こっていることとか頭に起こっていることは感情だったりわけのわからないものだったりするから、うまく言えへん。でも、おばちゃんは、喜びとか悲しみとか怒りとか、そういう感情を抽象的に表すことばで語る代わりに、目の前のことで語っていくのね。

ほし 現実的なことと常に向き合ってるひとだと思います。家のことも忙しいやろうし、あれもしなあかんこれもしなあかんって考えるんやけど、それより動いてようって。雨降るかもしれんし片付けとこう、とか現実的なことに落とし込んでいく。今の言い方でいうと、マインドフルネスだと思うんですけど。ここ以外のことに気がとられるようなことをここに戻したりするっていうのは、心のケアとしてすごくいいと思うんですよね。いろんな暗い思いにとらわれたりとか、ちょっと辛い感じがあっても「これものすごい丸いな」とか「この形はこれにちょうどええな」とか、そういうことを見て、いま自分はここにいて、このものと在ることを大事にしている。おばちゃんはそういうことを自然とやってはるひとやと思うんですね。
でも一応、そのなかでもちょっとした機微があるってことも、お父さんとの会話のなかでちゃんと入れてるんですけれども。2人がりくのことで「しゃべらへんわ」ってところで、「わたしらの若い頃とちゃうわ」っておばちゃんが言ったら、お父さんに「自分の若い頃なんて覚えてんのか」「お前がしゃべりすぎてりくちゃんにしゃべる隙を与えてへんのちゃうんか」って言われて、「お父さんだって何回も同じこと言わはりますやん!」って口答えする。その瞬間、お父さんがちょっと不安になるんですね。「そんなにわし、同じことばっかり言うてるか?」って。「ぼけてるのか? そんなに言ってるの?」って。お母さんは「あ、お父さん気にしてる」ってなって、「せやけどまあ面白いさかい何回聞いてもええんやけどね」って戻していく。で、「何回聞いても面白いからええんちゃう、歳とるのもええもんやな」っていう感じにして、2人のリズムに戻して落とし込んでいくことができる。

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細馬 ほしさんのね、家庭の会話って人情劇みたいなところがあるんだけど、どこかでちょっとざわってすんねんな。なんででしょうね。今言ったところは典型的なそういう場面なんでしょうけどね。時ちゃんの存在も、たぶんこれ吉本新喜劇とかでやったら、吉本より松竹かな、涙ちょちょぎれる世界になると思うねんけど、どこかでちょっと距離をとってるよね。ふつうの人情劇で起こらないような距離のある設定。

ほし そうですね。吉本とか浪花節みたいな感じよりは冷めていると思いますね。そこにも落ちひんみたいな、ちょっと冷たいかもしれない。

細馬 そうね。なんというか、人生に対しては少し諦観していて、そんなにじたばたしている感じがない。泣きわめいたり驚いたりとか。
でも、りくが泣けないっていうのはそういうクールさとは違うんだよね。もっと強い拒否だったり、何かに対するいらだちだったり、ものすごい強い感情があるから泣けないっていう感じですよね。だから他のひとがだんだんクールに見えてくるんですよ。ふつうだったら、りくが冷たくて関西の家庭はあったかい、ってなりそうなのに、読んでると関西の家庭は冷たくはないけど落ち着いてる感じがする。

ほし もしこれがふつうに人情劇なら、関西の家庭はめっちゃ怒ると思うし、映画で脚本とかで筋があってってなったら、すごく怒って泣いて、すごくいい話みたいになると思うんです。お互いやりあって、お母さんも怒って、お兄ちゃんも「お前ええ加減にしろ!」みたいな。わかりやすくぶつかると思うんです。そこがハイライトになると思うんですけど、この家庭はある意味ですごいクールなんですよね。ほっといてる。

細馬 実写とかにしようとしたら難しいと思いますよ。こういう落ち着いた関西弁、あんだけぎょうさんしゃべるけど、そんなにテンションは上がってなくて、落ち着いたまま会話を続けるっていうのは、大阪のひとには意外と難しいかもしれへん。そもそも、ほしさんは大阪のひと?

ほし 京都です。

細馬 京都やからか、もしかしたら。どうやろか? 大阪とちょっと違う気がするね。かといって京都のやらしい感じともちょっと違うしね。

ほし そうですね。曖昧ですよね、この家庭は。関西のどこか。みんな大阪やと思わはるけど、典型的な大阪ではない。わたしもそれを知らないから、完全に大阪っていうのはできないし。でもじゃあ京都かっていうと、これを京都っていうとまた全然違う話になってしまうから、京都でもない。