3)横道でニョキニョキふくらむ「枝豆理論」
———ホソマさんの研究は、多岐にわたってますよね。最新刊の『介護するからだ』は人間の「身体と声の動作の関係」ということで、研究テーマ直球のものですが、その一方で、関東大震災で失われた東京名物の塔『浅草十二階』、世界の絵はがきを扱った『絵はがきの時代』など、近代のメディア研究も大きな柱です。そこはどういうふうにつながっているんでしょう?
メディア研究自体がそもそも「横道」から始まったんですね。今となっては、どれが横道かわかんないけど。
浅草十二階を扱ったのも、最初は浅草十二階に興味があったんじゃなくて、そこに日本最初のエレベーターがあったから、明治時代のエレベーター内でのコミュニケーションってどうだったのかしらと思って調べ始めたんです。それで動物行動学だけやってたら縁がなかったであろう国立国会図書館に行ってみるんですが、あまり捗々しい答えは得られないわけですよ。1回では調べきれないから、何回か通うんだけど、いつまでたってもエレベーターの話が出てこない。でもなぜか塔に詳しくなっていくわけで。せっかくだから、ここに関わったひとの本も読もうと、石川啄木を読み、田山花袋を読み、どんどん横道に入っていく。
———横道。キーワードですね。
横道にはすごい入ります。
———あえて横道にハマっていきます?
そういうところもありますね。まとまった研究って、ふつうはプロットを書くんですよ。先ほど話した小説などと同じで、この研究はこのくらいの時間をかけたら成果が得られるよね、と見通しを考える。スタートポイントがあると、ゴールすらも見えてるわけです。そのゴールに向かっていくための重要な通過点もいくつかある。
わたしの場合、エレベーター内でのコミュニケーションを調べたいとか、最初のとっかかりはあるんですよ。でも、そこからどこに行こうか考えているときに、ここに面白いことがある、ここにも意外なふくらみが出てくる……と、あちこち横道を発見して、そこにずいぶんと時間を使ってしまう。そんなことやってるとゴールに辿り着けないんですが、それでもそのふくらみの方に行くんですよ。ああ、それはけっこうポイントかも。「途中で拾った妙なもの」が、あちこちでニョキニョキふくらんでくるんですね。「枝豆理論」とでも申しましょうか。
浅草十二階はそんな調子でした。エレベーター研究のはずだったのに、塔のこと自体が面白くなっちゃって、1冊書けちゃった。
絵はがきもそうで、浅草十二階は写真資料が残ってないから、絵はがきを集めるしかない。そうすると、これまたニョキニョキっとふくらんでくるわけですよ。塔の研究からすれば完全に横道だし時間はもったいないけど面白いので、また寄り道しちゃうのね。ニョキニョキニョキニョキと、絵はがきも増えてきて、またこう横にいっちゃう。で、絵はがきで本が1冊書けちゃうわけだよね。
———中高時代に始まった「拾い物で妄想」ですね。枝豆理論で横道に逸れていくとき、逸れていってる自覚はあるんですか?
あるにはあるんだけど、時間に対するもったいなさの感覚が違うのかな。短い人生そんなにたくさんのことはできない、って考えたときに、ふつうのひとは、だからこそ当初の目的をまっすぐ貫徹しようと思うのかもしれないけど、わたしの場合は、今自分の頭はこれを止められないなって思ったら、そっちにばーっと時間を使っちゃう。
———脳がいいといってるし、そもそもゴールのことをあんまり考えてない?
うん、あんまり考えてない。考えてみると、中学のときに小説の1枚目をずっと書いてたのと似てるかも。1ページ目でずっとアイドリングをしてて、なんか見つかると、それが当初思ってた方向かどうかとは関係なくガーッといく感じなんですよね。
———近代のメディア研究はそんなふうにしてやってきたんですね。アニメの創成期についての本も出しておられますけど、あれもニョキニョキ出てきたんですか?
大学院を出た頃、友人から借りたビデオ群にアメリカのカートゥーン・アニメーションがいっぱい入ってて、そのなかにフライシャー兄弟ものとかテックス・エイブリー監督の作品とか、変わったのがいっぱい入ってたんですね。自分で積極的に集めたものじゃないんだけど、でもなんだろうと気になってくる。そこからグニュっと生えてくるんですよ。
特に、音楽が面白くて「カートゥーン音楽」ってなんだろうって考え始めた。そうしたらレイモンド・スコットとか、カール・ストーリングとかスコット・ブラッドリーとか、怪しげな音楽家がいっぱいいて、楽しいことがわかってきたんですね。で、調べてみるとこれが意外にでかい鉱脈で、アニメーション音楽の起源みたいなものを考えないと捉えられないくらいの問題だったのね。
そうこうするうちに、アニメーションをけっこうたくさん観てそれなりに経験値が上がってたんです。それで、カートゥーン音楽も含めて、アニメーションの音と映像の関係ってなんだったの? って問いの輪郭がはっきりしてきて。ちゃんと書いてるひとがあまりいないので、じゃあ書くか、みたいな感じだよね。
———音楽、マンガ、アニメと、ジャンルが枝豆的に増えていったんですね。
そうそう。そうすると、だんだん土台ができてくるというか。聴くもの、動くもの、止まっているものと、視聴覚に関する主だったことをだいたいやったから、何かを分析するときのスタンスが固まってきたんですよね。どうすれば原理的に考えられるかがわかってくる。いわゆる印象ではなく、何かを語るにはどうすればいいか、方法のレパートリーが揃ってきたんです。
しかも、一方ではずっと「観察」をやってるわけで、実はアニメーションや映像を見たりすることって、生の観察と通じてるよねって話になってくるんですよね。アニメーションの物語をどう解釈するかっていうより、アニメーションを見る行為や、アニメーション自体のしくみを観察していたりするわけです。
———行き先を特に考えず、いろいろ横道に逸れてきたことで、結果的にホソマさんの土台ができたということでしょうか。
そうね。ずいぶんヒマを使って、相変わらずこうしてずっと逸れ続けてるようでもあるんだけど、研究の興味は基本的に「声と体のタイミング」なんで、ものすごく広い目で見ると、実はそんなに外してないのかも。
あえていうと、ゴールはないけどメソッドはある。どこにいるかはわからなくても、どこに行くにも必ず、そこでどんな音が、どんな身体動作が使われているかを考えるためのメソッドだけはあるので、それを携えていけばいい感じかな。
まぁ、なんかを発見する自信みたいなのはあるよね。何を発見できるのかはわからないけど、とりあえず旅支度をして、これはなんかある、と思ったところにいけば、何か見つけて帰ってこられる。それも全部を準備していくんじゃなくて、その場であれこれ道具を足したり工夫して。
———ここでいうメソッドとは、具体的に何になりますか? また、そこでのコツはなんでしょう。
メソッドというのは、具体的には時間関係を分析する方法ですね。事の次第には必ず前後関係があって、いろんなできごとが入り組んでる現象を見るときに、何が先に起こったかを見極めるのはすごく重要。今は音声と映像のいろんな前後関係を分析するソフトが充実しているので、それが主たる方法ですね。そういうソフトは自作のプログラムを組んだりしていろいろつくったので、その過程で、分析に何が必要かってのは体得しましたね。
コツってのはあるような、ないような。あえていうと、妄想はいくらたくましくしてもいいんだけど、自分の解釈を先に使わないこと。あくまで、そこでひとが何をしているのかを見るのが先、というのが基本。そうすると必ず帰ってこられるんですよ。自分の解釈を入れると、途中で飽きる。既視感が勝っちゃうんですね。ああ前にもこういう解釈したなって。
でも他人がやってることって、綿密に見るとこちらの知力、解釈力を超えているから、必ず面白く裏切ってくれる。自分より世界のほうが絶対偉いというか、知らないことを握っているはずなので、わたしの知らないことはなんですか? って感じで見にいくんです。