2)質の良い仕事は、良い環境から生まれる
デザインの仕事を始めたのは、26歳の頃だった。
———大学の建築学科を出て大阪の家具屋で働いていたときに、和歌山でカフェをオープンするという若い経営者から『デザイン事業部を立ち上げるから、来てくれないか』と誘われたんです。
デザイン自体、初めての経験。しかもその部署に所属しているのは自分ひとりだったから、『デザインだけしていれば自然と事業ができる』というわけにはいかない。売り上げの目標を立てて、商品をデザインし、プレゼンを重ね、営業をして。すべてをひとりで担う経験が、のちに役立ったという。
———見よう見まねだけど、背伸びしながらやっていたのがよかったんでしょうね。早い段階で全体の流れがわかるようになったんです。
こうなると、仕事が面白くてたまらなくなる。アイデアが次々と湧いてきて、徹夜も苦にならなかった。
———昔から飽き性なので、面白いことしか持続しないんです。そうやって面白がりながら仕事をすすめていくうちに『仕事を取ることが何よりも大事なことだ』と実感するようになりました。もちろん、受けた仕事をよりよい仕事として提出することが前提なんですけれど。
仕事を取ってくるためには、企画の内容をわかりやすく言語化する必要がある、と坂本さんは考えた。それは、自身の得意分野でもあった。
———川上から川下まで全部手がけさせてもらったことで、仕事のポイントも、自分のええとこもわかったんですね。
独立し、和歌山から大阪へ戻ってからも、店舗設計、家具のデザイン、商品開発と、仕事は順調に広がっていった。やったことのない分野に手を伸ばしてこそ、成長のきっかけになる。そう考えて、新規事業にも次々と挑戦した。
ところが、過労が重なった坂本さんは、ついに体をこわしてしまう。
———生命に関わる、大変な状況でした。どこかで無理していたんでしょうね。闘病生活半ばで両親の強い勧めがあって、こちら(東吉野村)に引っ込みました。
実は、坂本さんが東吉野村に暮らすのは二度目だった。最初は、中学1年生のとき。
———生まれて以来ずっとニュータウンっ子で、田舎の暮らしなんて知らなかった。アニメで見る田舎が、きらきらして見えました。そんなとき、祖母がコミュニティ紙に『蛍のいる地で山村留学しませんか』と書いてあるのを見つけたんです。その募集記事に強い興味を示したのが、父でした。画家の父は若いころ、フランスでアパレルの仕事をしていたときに『名だたるメゾンは職場環境がよい』ということに気づいたのだそうです。つまり、クリエイションは個人をとりまく環境からスタートする、と。自然の豊かな東吉野村は、父にとっても理想の創作環境だったんです。
こうして1年間暮らした、村の日々は忘れられない。弟と一緒に清流に飛び込むときの、冷たくて清らかな水の感覚。釣り糸を伝ってくる、鮎や岩魚の手応え。
坂本さんの両親は東吉野村を大いに気に入り、子どもたちの山村留学が終わったあと、この地にアトリエを構え、大阪と村を行き来した。そして、やがて子育てを終えると、東吉野村に移住した。
「都市の生活と、田舎の生活。今思えば、子どものころから常に比較対象を持っていたんですね。それでもまさか自分までもが、この村に移住するとは思いませんでした」と坂本さんは振り返る。