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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#151
2025.12

41年目の東川町 文化のまちづくりを俯瞰する

1 「写真の町」宣言がもたらしたもの 北海道・東川町
2)“北海道ならでは”の開拓精神

市川さんは、1981年に東川町役場に入職。写真の町が立ち上がり、定着していく時期に、商工観光課写真の町推進室推進係長、写真の町課課長などを務めていて、役場のなかでも当時を知る数少ない存在だ。

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市川直樹副町長

東川町が写真の町を宣言したのは、1985年のこと。翌1986年に「写真の町条例」を制定し、町をあげて写真文化のまちづくりに乗り出す体制を整えた。

当時の日本は、バブル景気の直前。1970年代半ばから80年代にかけては「地方の時代」とも言われ、1979年には大分から「一村一品運動」が始まった。地域が特産品を育て、売り出していく取り組みに注目が集まっていた。一方、ホテル、ゴルフ場、スキー場などが全国各地につくられ、余暇を楽しむレジャーブームの時代でもある。

東川町には、「上水道がない」と冒頭で触れたが、実は大雪山から湧く地下水が各家庭に引かれている。四季折々の美しさで登山客に愛されてきた北海道最高峰の旭岳(2291m)と大雪山国立公園が町内にあり、その麓には天人峡温泉と旭岳温泉という温泉街もある。観光資源に恵まれていたものの、差別化には苦戦。温泉街の集客が落ち込み、町政の課題となっていた。

「最初は、観光協会が、コンサートとか、花火大会のような1日、2日のイベントで人に来てもらうことを想定して、札幌のイベント企画会社に企画を依頼したんです」と、市川さんは写真の町が始まった経緯を振り返る。

———ですが、企画の依頼を受けた会社は、一過性のイベントでは本質的な観光振興にはつながらないと、通年で人が訪れる企画を提案したんです。自然の素晴らしさや東川のよさをもっと多くの人に知ってもらうには、どうすればよいか。どこの町でもやるようなこととは違う視点で、町を売り出していかなければと企画されたのが「写真の町」でした。

そのころの東川町は、観光客にとって目的地ではなく、旭岳への“通過点”だった。「旭岳には登ったことがあるけど、東川には行ったことがない」と、その存在を見過ごされてしまうほど。何を売りにして、町の存在をアピールできるか。一過性ではなく、通年でまちづくりに寄与するもの、しかも町自体の価値や発信力を高めていけるものがいい。そうした視点から、提案されたのが「写真の町」だった。

———「写真の町」という言葉だけを聞くと、写真関係者が訪れる町と思いますよね。そういう側面もありますが、まちづくりに写真文化をどう生かせるのか、という発想が根底にあるんです。人と自然と文化の間に写真、カメラがあることによって、人と人のつながりが生まれ、他の文化にも波及して人を呼び込むことができる。つまり、写真を媒介にまちづくりができる、という発想なんです。
写真の町宣言は、行政が関わることなので、文化やアートの振興というよりは、あくまで「まちおこし」の視点。「東川町をこれからどうしていくのか」という問いが原点にあったわけです。

だが、直接的な経済振興策を期待していた温泉街にとって、「写真の町」構想は想定外の大きな提案。肯定的に受け止めつつも、戸惑いがあったという。町全体に関わる構想であることから、町長に対応が一任されることに。そして、当時の中川音治町長が関係者の合意を取りつけ、全町を挙げて取り組むことを決断した。こうして、「写真の町」が誕生する。

ところで、数多ある文化のなかで、いったいなぜ「写真」だったのだろうか。

「写真が若い文化だったから」と市川さんは答える。その選択には、北海道の文化の歴史の「浅さ」が関係しているというのだ。

———そもそも北海道は開拓がはじまってから150年ほどの歴史しかない。そういう浅い歴史のなかで何をするか、なんです。本州の方とお話をすると、能でも歌舞伎でも何百年もの歴史を積み重ねてきて、自治体もそれを誇りにしている。
だけど、時間軸を逆転することは絶対にできないですよね。だから、北海道の文化は、誰もやっていないことを始めるしかないんです。絵画でも、書道でも、歴史では本州を超えられない。そうした文化と比べると、写真は文化として若い。ましてや自治体として文化振興をやっているところはない。そこをしっかりやれば、対外的にPRができる。全国初と堂々と言い切れるわけです。

開拓地である北海道は、先住民のアイヌ文化などの歴史はあるが、本州から持ち込まれた伝統文化は歴史が浅い。だが、それを比べても仕方がない。「伝統」や「歴史」をいまここから始めればよい。この発想の転換が、“北海道ならでは”の新しい文化をつくる。

では、「写真の町」とは何を条件とするのか。町がまず着手したのが、国際的な写真賞「写真の町東川賞」を創設することだった。

———写真の町だと宣言するからには、やらなければいけないことがあるわけですね。そこで、まず始めたのが、「写真の町東川賞」という国際的な写真賞をつくることでした。海外作品も含めて選考する国内唯一の写真賞を制定して、写真自体をアーカイブとして残していく。
それと同時に、写真を媒介にして、写真関係者かどうかを問わず、外から人に来てもらえる土壌をつくるということも、対外的なPRの一つの側面としてありました。

こうして、写真の町づくりは、町の未来を見据えた深慮遠謀と、北海道ならではの開拓精神から始まった。

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写真の町東川賞受賞作家の作品は、授賞年度のあいだ屋外に展示されている