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アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#138
2024.11

時を重ねた建物を、ひらきなおす 3つの洋館

1 研究者たちが交わる、フラットな自治空間 京都・下鴨ロンド
1)女性が育んだ洋館 画期的なレイアウト

「下鴨ロンド」は洋館を改修したシェアスペースだ。世界遺産にも登録される下鴨神社や糺の森からほど近い住宅街に、ひっそりと建つ。主導するのは、建築の歴史を研究する本間智希さんだ。2013年に東京から京都に拠点を移して以来、解体を余儀なくされた古い建物を写真や図面で記録したり、タイルや建具など建物の一部を譲り受けて利用の道筋を探ったり、先行きが危うい文化遺産を自分の足で見つけ出し、さまざまな形で活用に動いてきた。そんな中でめぐりあった洋館を下鴨ロンドと名付け、2023年4月より共同で使いはじめた。

まずは下鴨ロンドがいかなる建物だったのか、その来歴を紹介しよう。1932年築。彦根病院の院長だった石割仁三郎さんが故郷の京都に戻り、静かで日当たりの良い郊外に土地を求め、下鴨神社の近くに当時新しく宅地開拓されたこの土地に巡り合った。しかし、仁三郎さんは土地を購入後まもなく、ガンを患い他界してしまう。未亡人となった歌子さんは長男の隆太郎さんを施主としたが、当時、隆太郎さんは小学生。そのため実際に建設をリードしたのは歌子さんだった。この「女性が主導して建てた」ということが現在の佇まいにつながっていると、本間さんは説明する。

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本間智希さん 。文化遺産の活用を実践する建築史研究者。建物そのものに加え細部や素材にも深い愛着があり、とりわけ失われゆく名もない名建築の看取りには並ならぬ思いがある

———石割邸、いまの下鴨ロンドを完成に導いたのは、当時33歳の歌子さんでした。彼女が娘のみえさん、息子の隆太郎さんと3人住むための家として女性が主導して建てたので、家事生活動線を中心として間取りが計画されているんです。これは当時としてはかなり新しかったと思います。

下鴨ロンドの1階は、台所と食事室、居間やサンルームが一体的に連なる。現代のLDK的な間取りと遜色ない合理的なレイアウトだが、竣工時からその配置は変わっていない。当時の図面を拝見すると、ある部屋に”主婦室”という表記がある。裁縫道具などがしまえる収納スペースまで造り付けられ、今でいう家事室のようなスペースだったと想像できるが、現代でも裏手につくられがちなスペースが南向きの明るいガラス窓の場所にあるのは驚きだ。

この洋館の設計と施工は、住宅専門会社「あめりか屋」の流れを汲む「あめりか屋京都店」が手がけた。あめりか屋といえば住宅の洋風化を啓蒙する団体「住宅改良会」を組織し、日本初の住宅専門誌とされる『住宅』を発行するなど、戦前期に住宅とその生活の合理化を先駆けた建築会社として知られる。この下鴨ロンドの場合歌子さんの思いが反映され、現在の間取りに至ったことが本間さんによる現オーナーへの聞き取りを通じて明らかになっている。

———歌子さんの長男・隆太郎さんの妻にあたる現オーナーからお聞きした話によると、下鴨ロンドの場合、床座の座敷を廊下が囲む伝統的な間取りで、家父長制の名残が感じられる案と、西洋風の居間中心型の案と2通り計画されていて、歌子さんが後者を選んだそうです。歌子さんは進んだ考えの人だったそうで、居間中心型の案を選んだのではないかと思います。歌子さんは竣工後、「緑心会」というサロンを運営していたそうです。京大生と思われる制服姿の若者たちに囲まれた写真も残っていて、近所の知識人の方々が集まっていたと思われます。女性が主宰するサロンというのも珍しいですよね。

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石割邸玄関で撮影された写真。「昭和八年五月廿七日昼下りの玄関にて」とある。前列の着物の女性が歌子さん。その左の洋装の女性が長女のみえさん、右のメガネをかけた少年が長男の隆太郎さん。学生と思われる若い男女に囲まれており、知識人の集いの場であったことがうかがえる

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当時の配置平面図。方位の張り紙の左にある和室に主婦室の記載が / 石割邸の別案。現状とは全く異なる、座敷を中心に構成し、家事動線を裏手に詰め込んだプランだ