3)観察力育成講座 自分自身を言葉で知る
東明館高等学校では、以前から仕事を共にしてきた知人が校長となり、学校の改革が始まろうとしていた。瀬戸さんはその思いに共感し、授業を行うことになった。「『変な大人』に出会う機会をつくらなくちゃ、ということで呼ばれたんだと思います(笑)」と瀬戸さん。土佐町にいるころから一貫して目指してきた、「生きるための主体的な学び」を伝えることができればと、喜んで引き受けたと言う。
瀬戸さんは、「先生が一方的に教える」のが当たり前になっている日本の教育、そして「教育」という言葉自体に疑問を持っている。
———仕事をつくるときに「教育」を切り口にしたのは事実なんですけど、実は僕は教育には全く興味がなかったんです。おそらく今もほとんど興味がない。でもeducationには興味があります。「教育」って誤訳だと思っていて、educationはeduceという動詞からきていて、本来は「外に導き出す」っていう意味なんですよ。内在しているものをいかに引き出すかだと僕は思っているんだけど、教育と訳してしまったとたんに、学ぶ人ではなく教える人が主語になってしまった。僕は、educationは「I educate myself」以外のなにものでもないと思っています。
「観察力育成講座」と題された全15コマの授業で瀬戸さんが伝えようとしているのは、その名の通り「観察する」ことの大切さ。それは、他者を観察すると同時に、自分自身を観察することでもある。
人は複雑な問題を前にしたとき、往々にして問題を簡略化して一つの答えを出し、解いたつもりになりたがる。しかし、実際はこの世の中のほとんどの問題は複雑に入り組んでいて、絶対的な一つの正解はない。「正解はなくて、人の数だけの解釈がある。一人一人の解釈を正確に知ることの方が、正解よりも重要なことが多いです」と瀬戸さんは話す。
———だから、生徒たちには、自分自身のものの見方のスタイル、表現のスタイルをつくっていってほしい。自分の身の回りになにがあるか、どういう人がいるか。そして、その観察したものを表現しようとしたとき、自分でも思ってもみない言葉が出たりします。いい言葉もあるかもしれないし、人を傷つけてしまう言葉もあるかもしれないけれど、表現をしないと自分自身の観察というのはできません。観察して表現して、表現して観察して、ぐるぐる回って、自分ってどういう存在なんだろうとか、どういう表現が好きなんだろうとかっていうことをずっと考える。これは生きることの一つの大きな意味だと思います。
9回目となるこの日の授業のテーマは、「音」。瀬戸さんは、「言葉のベースは意味ではなく、音とニュアンスだ」と言う。意味としての言葉の地位ばかりが高まってしまったことで、言語が痩せてしまったのだと。
———日本にいる多くの人が、耳から入ってくる情報を処理する能力が低くなっていると思うんです。たとえばアメリカでは、ビジネスや研究の現場で何か言いたいことがあったら、まずメールより電話をします。博士課程のときに、「この研究所でいちばん大事にしなくちゃいけないのは、みんなとのコーヒーブレイクだ」と言われたこともあります。同じ言葉でも、誰かとの対話のなかで生まれたときと、ペンを持って机に向き合っているときとは違うんですよね。話される言葉には、意味だけじゃなくて、声であったり、誰がそれを言っているかとか、抑揚であったりとか、そういったものが重要な情報として入っていて、それは無視できないと思っています。
日本語の特性も音が疎かになる一因となっているかもしれない。
———他の多くの言語は、基本的に一つの文字自体に意味はなくて、文字の組み合わせで音をつくり出して言葉を伝えているんですよね。でも日本語の場合、漢字一つに多くの意味が包含されていたりするから、文字に注意がいってしまうんです。音自体や、音に込められたさまざまなものを聞くこと、自分の口から音を発することを、もっと大事にしないといけないと思う。
そんな話をしているうちに、田畑に囲まれた小高い丘のうえにある高校に着いた。