4)常滑焼の大枠を知る 行政のコーディネーターとして
歴史のある窯業地で、作り手とともにものづくりを行っていきたい。毎日がフィールドワークのような状況に身を置き、アイデアやかたちを共に考えていきたい。高橋さんはわくわくしていた。
行政から仕事のオファーがあったのは、移住して半年も経たない頃だった。窯業を振興する「常滑市陶業陶芸推進事業コーディネーター」に、という話である。移住前から、常滑市主催の「長三賞陶業展」の審査員をしていた経歴なども考慮されたかもしれないが、高橋さんにとって、早すぎる展開だった。
職務としては、市の窯業に関する財源をどう運用するかを考え、助言し、具体的な事業の提案を行う、という内容だった。窯業の「財源」は、LIXIL(旧・伊奈製陶株式会社)の創業者で初代市長・伊奈長三郎の寄附金がもとになっている。常滑窯業の興隆を願って、市に自社株15万株を寄附し、基金が設立された。常滑市立陶芸研究所の建設にすべて充てられ、その後、数回にわたって追加の寄附もあった。産業としての陶だけではなく、陶芸の芸術性によって陶業も磨かれ、作り手が育ち、地域振興につながることが伊奈長三郎の願いだった。
年間1億にのぼる予算は、6万人弱というまちの規模からすれば、かなり大きな額だろう。
———いきなり大きな主語で、大きな目標でやっていくことになって。知り合いもまだ少なかったですし、端からは、役所の仕事をしに来たように見られていたと思います。
ものづくりが好きで、それがしたくて来たはずが、常滑の陶業陶芸を考え、事業を立ち上げることなどを要請されたのだから、その戸惑いと荷の重さは想像に難くない。
一方で、その仕事は常滑焼の大枠を知る機会でもあった。そもそも、常滑焼の振興とは何か、市の熱心な担当職員とともに探っていった。
———数字をひもといてみると、常滑の窯業の大部分の売り上げは、タイルやレンガなどの建築陶器と、LIXILなどの大規模メーカーの衛生陶器です。一方で、世間一般で常滑焼といったら急須だと思います。でも、建築陶器と衛生陶器に対する急須など(のテーブルウェア)の売り上げは、割合で9対1にも及ばない。
しかし、常滑焼の振興というと、急須をはじめ、テーブルウェアや陶芸の方向に主に話が行ったりします。ですが、前述のとおり、ここから産業としてボリュームを持たせるのはかなり難しいと思います。常滑の窯業を根本から立て直そうとしたら、建築陶器や衛生陶器にも目を向け、各社の変遷なども遡ってリサーチする必要もあると感じました。全国的に窯業全体が斜陽産業といわれるなかで、常滑の窯業はどうあるべきか、現状を共有した上で、議論を重ねる必要がありました。
常滑焼の産業構造や課題を知っていきながら、高橋さんは、単年度ごとに実現可能な事業を考えた。中長期的なビジョンにつながること、現状の改革となりうることを出せないか、と。それをふまえた提案が、焼きものを多方面から担える人材を育成する「とこなめ焼DESIGN SCHOOL」だった。
———自分の職能を常滑という窯業地で活かしている人たちが集まるコミュニティができたら、窯業にもバックがあるんじゃないかと思いました。作り手、伝え手、売り手、使い手と、いろんな人たちが何かをつくっていくうねりを生み出せたらいいなって。焼きものをやっている人も、デザインや建築、編集などを知ることで、成長できるところはあると思うんですよ。そういうコミュニティづくりを、公的な資本を使ってやってみたんです。
ディレクターは高橋さん。常滑外からゲスト講師を呼び、スクールの体裁を整えた。常滑焼の公共施設である「とこなめ陶の森」に集まることを主に、参加者のフィールドを訪ねたり、他地域の視察旅行などもプログラムに組み込んだ。
1年目はUターン、Iターン希望者など県外からの応募もあり、活気づいたが、2年目は参加者を「焼きものの作り手」に限ってみたところ、とたんに応募がなくなった。
———実際、僕のほうも、誰の顔も思い浮かばないままにそう設定していたんですよ。(作り手の育成という)思いだけが先走ってしまった。
常滑焼の作り手たちは、この頃まだ、高橋さんのことをよく知らない。さらに行政とのデザインの取り組みのこともよくわからない。知らない、わからないものを、自分に結びつけて考えることは容易くない。
今であれば、高橋さんも、来てほしい人も、彼らに教えてほしい人も以前よりは思い浮かぶ。
———やっぱり、時間が必要なんだと思いました。関係性ができる以前に、成果主義的にいきなり大きなプロジェクトをやっていくのは難しかったです。
そして、常滑に流れている時間があるのに、コーディネーターとしての自分の成果を求めて、公的な事業の時間軸にまちの人が合わせるのは違う、と実感したんです。