1)学校という場にある「何か」
「ぼくらが住んでいたときと比較すると、何倍もバージョンアップしてますね」と、彫刻家の國松明日香さんが、飛生芸術祭について語る。
———スケールとか、みんなの結束感とか、ここで打ち出している1つのコンセプト……とまでは言わないけど、醸し出しているものが、肉親でありながらもすごいなと感じています。
その日、旧校舎内の憩いの場となっているカフェスペースで、飛生芸術祭を訪れた國松さんに、飛生アートコミュニティーの成り立ちについて話を訊かせてもらった。
國松さんは北海道を代表する彫刻家で、飛生アートコミュニティーをはじめた人物でもある。現在の飛生アートコミュニティー代表の国松希根太さんは、明日香さんの長男にあたる。飛生芸術祭の核となっている共同アトリエがはじまったのは、35年前の1986年。現在のように廃校再生にアートを活用する動きがまだ少なかったころだ。
———白老町教育委員会の次長さんだった方で、とても面白い発想をされる方がいらっしゃってね。白老に別の仕事で出入りしているときに、「来年廃校になるところがあるんだけど、何かできないだろうか?」と。
ちょうど、彫刻家の砂澤ビッキ(1931〜89年)が廃校に移り住んで活躍していたころでした。ビッキはぼくも使った海外研修制度でカナダに行き、カナディアン・インディアンの大きなトーテムポールとかの仕事ぶりを見て刺激を受けていた。ですが、札幌とかでやっているころは材料もあまり手に入らず、広い制作場所もないという状況で、仕事に限界があった。それで、(北海道上川地方の北部にある)音威子府(おといねっぷ)村からたまたま誘いを受けて、(1978年に)廃校に移り住んだんです。それ以来、彼の仕事がものすごく変わったんですよね。そのこともあったから、面白そうだなと。
自分たちの制作の場や、イベントをやる場としてこんなチャンスはない——。國松明日香さんを中心に、興味を持った5人のアーティストが集まり、飛生アートコミュニティーは始まった。1980年代は、日本中が好景気に沸き、全国各地で一村一品運動やテーマパークの建設などを通じて、特色ある地域づくりに向けた取り組みが広がったころでもある。『飛生アートコミュニティー30周年記念誌』で、明日香さんに廃校利用を相談した町職員の今村吉生さんが、「白老は横に長い町で、川で寸断された集落が点在しています。その立地をプラスに生かす政策の一つとして、芸術村構想が計画されていた」と明かしている。
「ただ、最初は、移り住む決心はつかなかったんです」と、明日香さんは振り返る。
———最初は、他のメンバーがここに住んで、ぼくらは札幌から側面的に支援というか、アトリエとして使わせてもらおうとスタートしたんです。ですが、その住んでいたメンバーが急に札幌に引っ越さなくてはいけなくなり、住む人が誰もいないのでは維持していけない、と。それで一番身軽だったぼくが引っ越して来たんです。勤めていた短期大学を辞めたりしていた時期でもあってね。子どもを連れて5人家族でここに移り住んだ。そこから始まったんですね。
建物が大きいので、うちの家族だけだと、年間の光熱費がけっこうかかるんですよ。電気代もストーブ代もかかるし、イベントをやるとなにかと出費がある。それで、応援というか会費を出し合いながら運営する形にした。それに「飛生アートコミュニティー」という名前をつけて、活動の組織体としていたんです。組織体っていうほどのものではないんだけどね。
明日香さんの飛生での生活は約2年。制作に没頭できる広い環境、そして大自然のなかで過ごしたことは、自身の彫刻家としての活動にとっても「ターニングポイントになった」と言い、「自然が本当に身近にあるなかで、なにかと自分といつも照らし合わせながら見つめていくことが可能になった」と語る。明日香さんも、希根太さんと同様、まずは自身の制作場所として、この地を選んだという。生活が落ち着いたところで、仲間たちと小さな演奏会や工作教室などの催しを開いた。それが、時を経て飛生芸術祭が生まれる一つのきっかけにもなっていく。
———何かできないかと自宅にあったピアノをこっちに運んできて、ジャズピアノをやっている仲間に「ここで演奏会を開いてくれない?」と投げかけたりしてね。いとこにバイオリンを弾いている人がいたから、カルテットを組んでもらってクラシックの弦楽四重奏の演奏会をしたり。そうしたら、結構お客さまが見えて。
希根太は当時、小学校3年生だったんですけど、大人がイベントを遊びのように楽しんでいるのが面白かったらしくて。自分たちも何かできないかと思って芸術祭をはじめたみたいです。ぼくはそのことを知らなかったんですけどね。何かのきっかけでインタビューに答えているのを見て、そうだったんだなって。
35年前から、飛生には独特な場の魅力があったと明日香さんは語る。
———ぼくらがここにいたときも、札幌の友人とかが遊びに来てくれたのですが、みんな子どもみたいにここで遊ぶというか、寛いでいくんですよ。ここが学校だったということも理由の一つにあるかもしれない。希根太たちの代になっても、周辺のひとたちが集まるようになってきているのを見ると、やっぱり何かひとを惹きつけるもの、具体的には非常にわかりにくいんだけど、「何か」があるんじゃないかなって感じがするんですよね。