アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#155

上巳節供
― 野村朋弘

sora_102

(2016.03.20公開)

女子のいる家庭では、3月3日に雛人形を飾り、ちらし寿司やハマグリのお吸い物を食すところも多いことだろう。
雛祭りとして呼ばれるこの日は、元来は「上巳節供」という節供の一つである。
節供に合せて、神社仏閣でも多くのイベントが行われている。千葉県の勝浦にある遠見崎神社では石段に1200体ほどの雛人形を飾ったり、明治神宮では境内の池に願い事を記した短冊を付けた雛を流す。

そもそも、この上巳節供とはどのようなものだったのだろうか。
スタートは古代中国、3月の最初の巳の日に行なわれたので上巳という。川などの水辺に行き禊を行って躰を清め、また桃の酒を飲んで邪気を祓う行事だった。中国では桃は穢を祓うものと考えられていた。日本では伊邪那岐命が黄泉国から逃げ戻る際、この世への境である黄泉比良坂で、追っ手に桃の実を投げて難を逃れている話が『古事記』にある。これも桃が中国同様に穢を祓う力を持っていると考えられていたことに拠る。

話を元に戻そう。禊を行うことと、邪を祓うための酒宴。これが上巳節供の原点である。
日本では自分自身の穢を人形(ひとがた)に移して、川に流す風習へと変化していく。中世の頃には、そうした記録が多く遺されている。これに貴族たちの女児の人形遊びである「雛遊び」が結びついたのが「雛祭り」である。

雛祭りが形成された中世では、雛人形は立ち雛や紙雛といったもので「ひとがた」の姿の名残があったものの、近世になると今の主流の形である座雛が登場する。
雛飾りといえば、内裏雛・三人官女・五人囃子・随身・衞士が段に飾られるものをすぐに想起されるだろう。しかし、雛祭りが形成された頃は男雛と女雛のみが主流であった。江戸時代に入り、寛永雛・元禄雛・享保雛といったそれぞれの時期の雛が、専門の職人によって作り出されていく。職人は有職故実に則り、豪華な雛が生み出され商家などで飾られるようになる。庶民がこうした段飾りの座雛を飾るようになったのは、昭和になってからといわれている。

さて、今回の写真は我が家の内裏雛である。違和感を感じられた方もいらっしゃるかも知れない。
それは天子を模す男雛と、皇后を模す女雛の配置である。男雛が向かって右、女雛が向かって左に配されている。今では東京を中心に、関西を除く多くの地域では男雛が向かって左、女雛が向かって右に配されている。これ何故か。そもそも日本では天子が向かって右、皇后が左に配される。しかし、近代になってから西洋文化が取り入れられ、昭和天皇の即位式から改められ逆になる。江戸時代に描かれたものや明治・大正の写真にある雛飾りと、昭和以降のものとは、配置が異なっているのだ。このため、関西では昔ながらの配置にしているものの、東京を中心とした多くの地域では、昭和以降の配置になっている。
これは上巳節供のみならず、雛飾りも時代と共に変化したことを示すものといえるだろう。

また、雛人形に関して、もう一つ。男雛の冠の後ろ、垂直に立っている部位に注目したい。纓と呼ばれるものだ。現代の雛人形では纓が垂直に立つ、立纓(りゅうえい)の形式である。しかし纓とはそもそも垂れているもので、天皇だけが立纓を用いるのだが、近世までの姿を見ると、立纓といってもなだらかな曲線を描く。近代になってから、威を示すためかまっすぐに天に向かって、垂直に立てられるようになった。これが影響して、雛人形の男雛の纓も立っているのだ。こうした人形の装束の細部を見ても、変化していることが分かるのだ。

伝統的な行事とはいえ、時代や社会に影響を受け変化していく。その変化を知ると更に行事は趣の深いこととなるだろう。