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#310

人為のそとがわ
― 下村泰史

人為のそとがわ

(2019.03.10公開)

私はどういうわけか今芸術大学にいるけれど、もともとは農学部の出身で、その後ニュータウンの開発現場を、ヘルメットを被って走り回っていた人間である。もちろん若い頃から芸術に興味を持ってはいたけれど、基本的にはそういう専門性からは離れたところで生きてきた。
私のもともとの専門は造園学である。これも幅の広い分野で、現代的な建築と呼応するようなデザインが求められる場合もあるし、日本庭園の作庭もまたこの分野であるし、生態学の知見を援用しての国立公園の運営、といったものも、この領野にふくまれる。人の関与の度合いに幅はあるが、その魅力の相当部分は造園家が制御し得ない「自然」によっているのは確かである。
それに比べると、ファインアートというのは「自然」はほとんどなくて、技としても認識としても、徹底的に突き詰められた人為によって作られているようにみえる。そういう点では、造園というのは最初から人間の営為以外のものが多量に入り込んでいて、見る人によっては甘いというか、第二級の芸術のようにも見えるのかもしれないなと思うことがある。
このように、いわゆる芸術と造園のようなものとは全然違うものだと思っていたこともあった。だが今はそうではないように思っている。人為の厳密さを追い求めていく種類の表現も、人為の限界のその界面の向こう側に、制御できないものと触れているからだ。それが自然なのか、超自然的なものなのかはわからないけれど、表現の指先は超越的なものと接している。そうした制御の効かないものが、わりと真ん中に出てきているか、表現のそとがわに暗示されているかの違いであって、ほんとうはそんなに違わないのではないかと思うようになったのだった。
音楽にのめりこむようになって、この思いはますます強くなってきた。リアルタイムでの演奏中にはこの、制御し得ないものとこちらがわとの間の界面が常に現前しているように思われるからであった。人為の意図のむこうがわにある得体の知れないものに接触する経験は、芸術においてはけっこう大事なことなのかもしれない。
もともと造園畑にいた私が芸術教養学科に関わることになって興味深く感じたのは、ここもまた制御し得ないものがいろいろ入り込むものを対象としているところであった。芸術教養学科の「卒業研究」のシラバスには、このような部分がある。

〜特定地域でのデザイン・芸術活動の評価報告書を作成します。評価対象は地域の文化遺産に関わるもの、今日的な制作、上演活動のいずれを選んでも良いです。ジャンルも造形物、食文化、出版文化、景観、イベントなど、制作的な契機があれば何でも結構です(棚田や並木も自然の風景というだけではなく、人工的な制作物でもあります)。〜

ここでは人間による「制作的な契機」が前提とされているものの、いわゆる「芸術」「デザイン」としては語られてこなかったものが多く含まれる可能性がある。現に、ユニークで印象に残る「卒業研究」レポートは、それまで芸術として眺められたことのないものについて視線を投げかけ分析を行っている。ここには、人為による制作「だけ」では生まれ得ないものが多くその思考の対象とされている。さまざまな「制御し得ないもの」が介在しうるのである。「芸術教養」は時空間的に拡張された「造園」なのかもしれない、と思うようになった。そういえば、「情熱大陸」でも知られる高名なコミュニティ・デザイナーもまた、造園出身であった。

ではこういう制御しえないものは、どんな表現にも紛れ込むのかといえば、そうは言えないのであろう。業として分担を行いシステムで動くデザイン分野、特に大量複製を前提としたような分野であれば、こうした制御できないものはノイズということになる。そこでは、人為がすべてを形作ることになる。
こういうデザイン分野の中で、自然を扱うランドスケープ・デザインはやや特異な分野なのだろう。とはいえ、都市空間系のランドスケープ・デザインは、空間を方眼に区切り同じ形の樹木を集めて規則正しく植えたりする。ここでは、やはり空間を制御しつくしたいという意志がある。自然のありようを活かす日本庭園の作庭とはずいぶん違う考え方だと思う。これは、自然観の違いでもあるし、同時に人間観の違いでもあるのだろう。
「デザイン思考」といった言葉を使うときに気をつけなくてはならないのは、こうした、プロセスの外部にある制御できないものを、どう感知するか、どのように取り扱うかだろう。すでにテーブルの上にあるものだけで問題解決に望むのか、それ以外のリソースにも目を配るのか。例えば、比較的最近まで土木分野は、機能と経済性を旗印に自然をかなり広範に破壊してきた。これはその分野のテーブルの上に自然に関する知がないままに課題を設定し、その解決をデザインしてきたことによる。
人間が創意を働かせ、制作的な契機をもって作り出してきたのはどのようなものなのか。それが純然たる人為ではないがいゆえに見過ごされているとしたらもったいないことだ。そこにどのような人為と、人為を超えたものがあったのか。その人たちはどの界面をどのように見つめ、関わったのか。こういうことを明らかにすることで、これまで語られなかった人為に目が向けられるようになればよいと思う。

何が制御できて何ができないのか、といった話題は、もしかしたら伝統的な「無知の知」の問題に関わってくることなのかもしれない。機能的な側面やロジカルな性質が強調されがちなデザイン分野であるが、人為のそとがわにある未知に心を開き続けてあることが、その活動には必要なのだと思う。