(2018.02.25公開)
京都洛西、等持院。足利将軍家の菩提寺として知られ、夢窓疎石作と伝わる庭園は衣笠山を借景として四季折々の花が咲く。
その庭に早春、花をつけるのが掲出の写真の「有楽椿(うらくつばき)」である。樹齢約400年といわれ、豊臣秀頼によって等持院が再興された折に植えられたとも伝えられている。
その名である「有楽」とは、織田信長の弟で茶人として名を知られた織田有楽斎(うらくさい・1547~1621)が好んだ花であったことにちなむという。薄桃色の花は愛らしく、現在も茶室に飾る茶花としてもしばしば用いられる。
先日、根津美術館を久々に見学した。新春らしく「百椿図」が展観されていた。狩野山楽(かのうさんらく・1559~1635)筆と伝わり、「本之巻」と「末之巻」の2巻、100余種の椿が描かれている。
丹波篠山藩主であった松平忠国(1597~1659)とその息子信之(1631~86)が二代にわたり、椿に対する賛を皇族や門跡、公家、大名、歌人や俳人、儒者、高僧など49人もの人々に依頼した。
その冒頭は「水戸黄門」こと、徳川光圀。そのほか桂離宮を建てた八条宮智仁親王、松花堂昭乗、松永貞徳、北村季吟、林羅山などなど、まさに当時の一流文化人ばかりである。
このなかで、松花堂昭乗(1582~1639)の賛に「桃椿」として、
みちとせをやちよにそへてもゝといふ
つばきぞ花のかぎりしられぬ 昭乗
この長寿を寿ぐ意をもつ桃椿こそ、有楽椿と同種の椿と考えられる。有楽椿は園芸用に改良が加えられたもので、当時、椿は園芸植物としてとても愛好されていた。
徳川2代将軍、秀忠(1579~1632)は園芸愛好家として知られ、『武家深秘録』(慶長18[1613]年刊)には「将軍秀忠 花癖あり 名花を諸国に徴し これを後園吹上花壇に栽えて愛玩す 此頃より山茶(ツバキ)流行し数多の珍種を出す」とあるという。
この「百椿図」が作られた背景にも、こうした椿ブームが背景としてあった可能性は否定できないだろう。こうした園芸ブームが江戸時代を通じてあり、おもとや朝顔、サクラソウなど、さまざまな植物が対象となり、高値で売買された。オランダでのチューリップバブル(17世紀前半、チューリップの球根が投機対象となった)を彷彿とさせるものがある。
さて椿は、学名をCamellia japonicaという。オランダ商館付きの医師として来日したエンゲルベルト・ケンペル(1651~1717)がその著書で初めて椿を紹介。その後、イエズス会の助修士ゲオルク・ヨーゼフ・カメル(1661~1706)が椿の種をヨーロッパに持ち込んだことで、カール・フォン・リンネによって、椿にカメルという名前をつけ、ケンペルの記載に基づきジャポニカの名前をつけたという。
椿とはそもそも、照葉樹林帯の植物としては代表的な常緑樹であり、日本では藪椿、雪椿と呼ばれる原産種が存在する。また東アジアでも椿の他種が認められている。
こうした日本原産の椿は、万葉集にも歌われ、日本人にとってはなじみ深い花であった。
民俗学者の柳田國男(1875~1962)は、かつてこの椿の東北地方での自生を、史蹟記念物であると述べたことがある(注1)。
現在、日本最北に自生する椿が青森県夏泊半島の平内町にある。国指定の天然記念物となっているが、大正11(1922)年にその天然記念物となったあと、柳田は史蹟記念物ではないかと疑義を呈したのである。
その根拠は、この北端に一万本もの照葉樹林帯の樹木が自生するのは容易ではないこと。そして椿にまつわる伝説やイタコの道具として椿が用いられること、御神木のように祠とともにある椿の林の存在などを取り上げ、椿は人が持ち込んだものであると解釈すべきであると主張した。
結局、柳田の説は広まることはなかったが、何気なく自然環境として捉えがちな景観であっても、人間が介在している可能性を指摘したことは、当時としてはまさに炯眼であった。
現在では、縄文時代以来、人間の営為によって自然環境の多くが改変されてきたことを考古学的な調査から知ることができるが、戦前段階においてこうした主張をしていたことは、さすが柳田というべきだろう。
日本人と椿の長い歴史を思いつつ、改めて椿の花を楽しまれてはいかがだろうか。
(注1)柳田國男「椿は春の木」『豆の葉と太陽』(創元社、1941年)。国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453837