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アネモメトリ -風の手帖-

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#239

アートを書く
― 大辻都

アートを書く

(2017.10.30公開)

大学通学部では、制作系の学生たちに向けて「アートについて書く」ための授業をおこなっている。折しも今月は「ニュイ・ブランシュKYOTO 2017」が市内各地で開催されており、授業には恰好の題材なので、学生たちとともに町へくり出した。私たちが選んだのは、Green Wise、眞城成男、梶山葉月、古木洋平のコラボレートによる展示「Perception」だ。
授業では、まず題材についてなるべく正確なことばで描写し、紹介することをもとめる。さらに可能ならば、その題材を書き手なりのヴィジョンで切り取ってみる。すなわち批評文である。私自身も彼らとともに題材を体験し、書いてみた。以下がその文章である。

フロアに続く階段を数段上っただけで、すでに香りが鼻を衝く。複数の植物のエキスが凝縮したかのような匂い。フロアには、くり抜いた木や陶の器にさまざまな野草や花が活けられている。芒、秋桜、野葡萄、葉鶏頭、狗尾草……。室内でありながら秋の野が重なって見えてくるのは、自然に近い丈の高さと配置のせいもあるだろう。だが鼻を近づけてみれば、それぞれの茎や葉はごく穏やかな草の匂いをたてるだけだ。強い香りはもっと奥から来るらしい。
黒い紗の幕で区切られたスペースは幅が狭く奥行きのある長方形で、ほぼ暗室となっている。ほぼ、というのは、部屋のかたちに合わせた長方形のガラステーブルの上や下に置かれている蝋燭の火がほのかな明かりを放っているからだ。何枚か置かれた鏡オブジェが炎を増幅させ、橙色の暗い揺らめきが天井にも反射している。ほの暗く奥に長い空間は一瞬教会の礼拝堂を連想させる。しかし生命のない石の空間と大きく違っているのは、ここではすべてが息づいていることだ。まず驚きをもたらすのが足元の感触だろう。テーブルの周りには屋外さながらの砂利が敷き詰められていて、一歩踏み出すたび、足裏は靴底に押されて砂利が逃げるのを感じ、耳は砂利同士が擦れてたてる音を聞く。
テーブルのあちこちには野生原種の蘭や苔が置かれている。土の匂い、湿った苔の匂いが感じられる。わずかな光のもと、蘭の花はかろうじてそのシルエットを認めることができる。テーブルの奥に隠れるようにして、木材をランダムに組んだ壁面がある。いくつかの木材の裂け目にも野生蘭が根づいている。複数の木材の断面はスクリーンの機能も持つ。水面の波紋を浮かび上がらせていたかと思うと、乾いた土の地面へ、俯瞰した海岸線へと切り替わる。映像は古木洋平による「水の記憶・土地の記憶」だ。
さらに奥まったところに、壁で区切られた細い通路がある。ここはいわば袋小路になっており、行き止まりのガラス戸を隔てた向こうは光の世界である。その行き止まりには一枚の拡大鏡があり、鳥めいたシルエットを見せる野生蘭の花弁と揺らめく炎を誇張している。見つめていると軽い陶酔へと導かれてゆくようだ。
あるかなしかの明かりのもとでは、視覚は最小限度に抑えられる。しかしまったく奪われているわけではない。谷崎が『陰翳礼讃』で讃えたように、ほの暗い影をまとった事物は白日の下にあるよりむしろ、艶やかな表情を浮かべている。そして視覚以上に際立ってくるのが匂い、音、そして感触である。それらは暗がりのなかでこそ鋭敏に作用し、踏み入れた者に新鮮な知覚として感じられるだろう。こうした知覚を通し、この空間に踏み入れた一人ひとりは、暗室のなかにリアルな自然を出現させるのである。
イヴェントでは、もうひとつの五感の要素として味覚を取り上げ、食を提供する日程もあったらしいが、そちらは体験する機会がなかった。それは唯一残念だったが、ヒトが本来持つさまざまな知覚を磨き上げ、想像力で風景を生み出すのに、かつては長らく日常に存在していた暗がりの効用は確かにあると実感できた。