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アネモメトリ -風の手帖-

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#141

日比谷公園の昼
― 川合健太

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(2015.12.05公開)

平日の昼間に日比谷公園を吟行する機会に恵まれた。吟行とは俳句を句作しながら外を歩くことで、その後には座について句会という鑑賞会をする流れが一般的である。俳句を始めて三年目の私もようやく板についてきた。日比谷公園はちょうど丸の内と霞ヶ関、有楽町と新橋というビジネス街、官庁街、繁華街に囲まれたスポットのため、お昼休みともなると、四方八方からビジネスマンやOLたちが集まってきて、それに観光客や地元の人たちも加わり、ずいぶん賑やかである。今年の11月は例年に比べて温暖で、その日もコートやジャケットを脱いでシャツの袖を巻くって歩くビジネスマンが多く見受けられた。ベンチに座って会話を愉しんだり、ひとりでお弁当を食べたり、物思いに耽ったりと、それぞれのひとときがある。遠くに目をやると、皇居や丸の内のオフィスビル、帝国ホテル、日生劇場といった華やかな建築がパノラマで見え、公園内にある松本楼をはじめとしたレストランや日比谷公会堂、旧・日比谷図書館といった施設の存在は重厚だ。そんな中にもキオスクのようにこじんまりとした売店もあって、私はすぐに日比谷公園が好きになった。日本には枯山水や回遊式を代表とする庭園文化の歴史があるが、こうした洋風の公園も悪くない。日比谷公園は日本最初の近代的洋風公園として明治三十六年に開園したそうで、そのいきさつを知ると面白い。
当時の日本には洋風の庭園や公園はなく、その設計はだれにとっても初めてのことで、東京市の顧問をしていた建築家辰野金吾でさえも「新式な西洋風の公園」設計を頼まれて困り切っていたようだ。そんな辰野の室をたまたま訪れた林学博士(公園の専門家でないところがミソ)本多静六が、少しばかり意見を述べたら、むりやりに地形図を押し付けられて、一週間ばかりかかって作った下図がもとになって市長から公園設計を嘱託されたらしい。本多静六の自伝にはその様子が面白おかしく綴られている*1。「今日存する日比谷公園の車道、すなわち大道路は、私がフリーハンドで勝手に描き上げたもので」や、「鶴の噴水のある雲形池は、ドイツのベルトラムの公園書中の模範図をそのまま借用し」など、若輩の本多静六が思い切り良く、自由奔放に設計を進めていることがわかる。また、設計案を市会に提出したときに、公園の門に扉を設けないと花や木が盗まれてしまうと攻撃されて、「公園の花卉を盗まれないくらいに国民の公徳が進まねば日本は亡国だ。公園は一面その公徳心を養う教育機関のひとつになるのだ。これは家の中では親の隠しておく菓子までとって食ってしまういたずら子が、一度菓子屋の小僧になると、数日にして菓子に飽きて一向食わないのと同じで、私は公園にたくさんの花卉を植えて、国民が花に飽きて盗む気が起こらないくらいにするのだ」と答弁したという話はなんとも気概にあふれている。
では、今回の吟行で生まれた一句を紹介したい。

冬薔薇もベンチも人も理路整然 翔*2

理路整然とはまさに近代的洋風公園の象徴であろう。冬薔薇は盗まれずにそこにあった。冬薔薇も人もベンチも平等なのである。

そういえば、先日聴講した講座(東京藝術学舎『明治、このフシギな時代2015年版』*3)で、句会の互選システム(自分の句は選ばず、互いに他人の句を選句する仕組み)が、明治時代に正岡子規ら俳句仲間の集まりで始まったことを知った。いやはや、公園といい俳句といい、どちらも明治時代の諸先輩たちが整理整頓された暮らしの楽しさをお裾分けしていただいている日々である。どうもありがとうございます。私も100年後の人たちに喜びを感じてもらえるように何か秘策を練らねば。

立冬の日比谷に潜むモダニズム 牛蒡*2

写真は日比谷公園内にあるキオスク
*1 『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六著、実業之日本社、2006年、164〜169頁を参照。
*2 一句目は俳人大高翔さんの吟行句、二句目は筆者の吟行句。
*3 次年度もプログラムを換えて開講予定。乞うご期待ください。