(2015.10.25公開)
誰がいいはじめたのかは不明だが、日本三大祭といえば、東京の神田祭、京都の祇園祭、大阪の天神祭が、それに該当する。こうした三大某と称するのは、日本人はとても好きなようで、三大夜景、三名城、三名園、三大酒処など、枚挙に暇がないほどだ。
これらの三大某、何を根拠としているのか不明なものも多いし三つの内、一つ、二つが諸説によっては異なるということも多い。とはいえ「京都の三大祭」といえば、葵祭、祇園祭、時代祭と、日本人であれば異論をとなえる人は少ないだろう。
葵祭は上賀茂神社、下鴨神社の祭礼。祇園祭は八坂神社の祭礼。そして時代祭は平安神宮の祭礼である。葵祭や祇園祭は、平安時代から催行されている。翻って時代祭は明治28年(1895)にスタートした、京都1200年の歴史から考えればとても新しい祭といえよう。
平安京遷都が行なわれたは延暦13年(794)の10月22日。それから平安京は「京の都」として天皇がおわす都としてあり続けた。しかし王政復古が行なわれた慶応3年(1867)を経て、東京奠都が実行される。天皇がいない地方都市となった京都は新たに近代化を進めつつ、殖産興業に努めた。知事である槇村正道や北垣国道らの推進策によって京都は次第に近代産業都市として変貌する。そうした中、観光客を呼び込む方策として平安京遷都千百年にあわせて様々なイベントが企画された。筆頭にあげられるのが明治28年4月に開催された第四回内国勧業博覧会であり、目玉として大内裏の復元が計画されたのである。
計画段階では大内裏があった地区に復元を考えたものの用地買収に失敗。明治時代には京都郊外にすぎなかった岡崎に大極殿を模造する。それが今日の平安神宮である。祭神は平安京遷都を行った桓武天皇と、後に平安京最後の天皇となった孝明天皇が合祀される。
こうした平安遷都千百年紀念事業の最大のイベントである内国勧業博覧会で、京都は初めて外国人観光客を受け入れ、また余興として都おどりが企画され、喫茶文化では裏千家の玄々斎が立礼式を考案した。京都の国際観光都市としてのスタートが、まさにこの平安遷都千百年紀念事業なのだ。
この遷都紀念事業において4月の内国勧業博覧会と同時に、平安遷都千百年紀念祭が開催される予定だったが諸事情によって10月に延引した。博覧会と同時開催ではない祭の余興イベントとして行なわれたのが平安時代から幕末維新期までの装束を着た人々が練り歩く「時代行列」である。これは京都の歴史的風俗を遡るもので、明治維新から江戸・織豊・室町・鎌倉・平安の装束順で練り歩く。装束など風俗の考証は、下御霊神社祠官の出雲路興通や有職故実の研究者であった猪熊浅麻呂ら碩学が担当した。時代行列は、紀念祭の一環として企画段階から観光資源として考案されたイベントであった。京都におけるイベントで集客を行う観光の嚆矢といえる。時代行列は好評を博し、翌年からは平安神宮の祭礼として「時代祭」となって現在に至る。
残りの三大祭りである葵祭と祇園祭は、時代祭に比して歴史があると冒頭に紹介したが、祇園祭の山鉾は江戸末期の禁門の変によって罹災し船鉾が復興されるのは明治22年(1889)。また葵祭は、江戸時代に「葵」の御紋を家紋とする徳川将軍家がバックアップを行っていたため明治時代になると財源不足から一時途絶えてしまう。だが明治16年(1883)に明治維新政府の実力者・岩倉具視の尽力によって復興されている。つまり、明治10〜20年代は、京都の祭礼が創出・復興する大規模なブームの時期であった。このブームによって、京都は近代日本の中で「古都」のイメージを確立するに至る。
今日、我々が目にすることが出来る「伝統的」な京都は、近代になってから創出・復興されたものが意外と多い。京都が近代日本の中で伝統都市のブランド化を進め観光客を呼び込む政策をとったスタート、それが平安遷都千百年紀念事業であり、時代祭なのだ。
時代祭が終わる頃、京都は秋に装いを変えはじめ、美しい紅葉のシーズンとなる。改めて京都の歴史に思いを馳せて観光するのも趣があることではなかろうか。