(2015.08.02公開)
清涼感のあるコバルトブルーのガラス瓶やおはじき。最近はアンティークボトルをはじめ、古いガラス製品は人気が高く、骨董市などでも高値で取引されているものも多い。今回写真に示したガラス瓶は、そうした骨董ではなく、私が東京都新宿区で発掘調査をしていたとき、遺跡の片隅で採集したもの。高さ5.8cm、横2.7cm、幅1.5cm。ガラスの厚さは1mmだが、重さ16.0gで、見た目よりも重さがあり精巧な造りである。表面には「人参目薬」と陽刻されていることから、「目薬瓶」であることがわかる。
現在使われているような液体の目薬が使われるようになったのは、慶應3(1867)年、岸田吟香が発売した「精錡水」から。ヘボン式ローマ字で有名なJ・C・ヘボンに岸田が眼病の治療を受けた際、目薬の処方を教えてもらい、自ら販売するようになったという。当時の日本は眼病の罹患率が高かったようで、幕末に長崎で活動したオランダの軍医ポンぺも、日本は眼病が多い国であると指摘している。そうした背景もあって、明治から大正にかけて、たくさんの種類の目薬が販売され、多様な「目薬瓶」がつくられた。ちなみに写真の目薬瓶の裏面には「朝鮮製薬合資會社」とあり、明治後期に実在した会社であることは、新聞広告などからわかる。会社としての実態は、今後さらに調査してみたい。
さて、この目薬瓶の形をよく見ると、四辺のうち正面左の一角が凹んでいる。出土品や伝世品などをみていると、「精錡水」の瓶では真四角であったようだが、次第にこうした凹みのあるものが主流となる。実はこの凹み、販売に際して箱詰めするとき、点眼のためのスポイト(いわゆる「ガラス管」で、製品によってはさらに綿棒をつけたガラス棒が入っているものもある)がうまく収まるように作られたものであった。そして昭和6(1931)年には、ロート製薬によって、目薬瓶とスポイトが一体化した小瓶が開発されたことで、こうした形態の目薬瓶も姿を消していく。目薬瓶の変遷を見ていると、当時のインダストリアル・デザインのありようをうかがい知ることもできて、とても興味深い。
つぎに、もうひとつ写真に写る「おはじき」に話を移そう。これらは東京都豊島区雑司ヶ谷遺跡から出土したもの。この遺跡からはガラス製のおはじきが1200点以上出土し、大きさは径10cmを超えるものから1cm程度のものまで多彩であった。飛行機や星などの記号、砲兵や騎兵といった文字が陽刻されるものもあり、近代以降に作られて、いわゆる「石けり」や「石取り」のような遊び方をしたもののようである。その色調をみると、写真に掲載したコバルトブルーのほか、透明、緑、褐色など、とても多様だ。工業製品としての目薬瓶とは違い、とても気泡が多いのも特徴で、技法的には町場の職人らによって簡易に作られたことが想定される。当時、ガラスは貴重なものであり、おそらくおはじきの多くは、目薬瓶をはじめとした様々なガラス瓶を材料として、製作されたものと推測される。
考古学の櫻井準也は『ガラス瓶の考古学』(六一書房、2006年)のなかで、近代ガラス瓶の色調について興味深い指摘をしている。櫻井はボードリヤールの『物の体系』(宇波彰訳、法政大学出版局、1980年)の記述を引用しつつ、内容物の保護といった「機能」的側面ばかりではなく、「文化的意味作用が働き、色調の差別化あるいは記号化が生じてい」たと指摘する。確かに、日本ではビール瓶といえば「褐色」というイメージが定着しているが、海外のビール瓶はコロナ、青島ビールをみても、透明や緑色をして多彩である。
明治・大正期には、コバルトブルーの瓶は、薬瓶や目薬瓶、化粧水などを容れるものとして用いられていた。おそらく櫻井も指摘するように、薬品類を入れるものとして、コバルトブルー色の瓶は認識されていたのかもしれない。こうしたガラス瓶の認識を踏まえて、多彩な色調のおはじきを見ていると、おはじきに転用され、生まれ変わったとき、瓶であったときに付されていた「記号」は失われたのだろうか。そんな疑問も湧いてくる。
このように近現代の遺物は、当時の物質文化を知るうえで、さまざまな知見を与えてくれる。しかし、いま近現代の遺物の多くは、「文化財」として認知されていないため、遺跡調査でも「廃棄」されている。実は文化庁の通知として、近世以降の遺跡、遺物は各自治体が「必要」と考えない限り、調査対象としなくてよいことになっているからである。遺跡でみつけた「目薬瓶」を私が所有できるのも、そうした理由によっている。いまこの瞬間も失われていく近現代の遺物たち。そろそろ、その評価を再考すべき時に来ているのではないだろうか。
【おはじき・写真協力】豊島区教育委員会 ※二次利用不可