(2015.05.17公開)
五月五日は端午の節供である。今では「こどもの日」として国民の祝日になっている。昭和23年(1948)に制定された。ゴールデンウィークの祝日の一つとして、行楽に出かけられた人も多いのではないだろうか。
端午をはじめとして節供とは、季節の変わり目を祝う節日であり、江戸時代に五つと定められた。正月七日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午・七月七日の七夕、九月九日の重陽である。
端午の節供は、古く朝廷行事で行なわれていた。重要なアイテムとして菖蒲がある。中世後期に成立した季節の行事の由来をまとめた『世諺問答』には、「菖蒲の根、万病をいやすといえり、(中略)酒中に入れ、あるいは帯にし、あるいは沐浴に入侍る」とある。沐浴に入れる、つまり今日の菖蒲湯とつながる行為が古代から行なわれていたのである。
端午の節供の本来の有り方は、季節の変わり目に際して、病や邪気を払うことを目的としていた。今日の五月五日は梅雨にも入る前、暑すぎず寒くもない、とても過ごしやすい季節だが、旧暦の太陽太陰暦で考えると、六月の初旬。つまりじめじめした梅雨と暑さが増してくる季節なのだ。
暑さや湿気は、疫病などを招きやすい。そのため、端午の節供では病や邪気を払うことを目的として菖蒲が用いられた。
ここまでつらつらと書いていくと、不思議に思われる方がいらっしゃるかも知れない。子供の行事ではないのか?と。
菖蒲は、「しょうぶ」という。このしょうぶが、勝負や尚武に音が通じるということで、武家に尊ばれ、また男の子が健やかに育つようにと端午の節供行事が、男の子の行事になっていく。
こうして中世・近世と時代を経るごとに、男の子の行事としての性格が強くなり、武者飾り、五月幟、鯉のぼりといった、端午の飾りが生み出されてきた。
江戸の風俗をまとめた『東都歳事記』には、「七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立て、冑人形等を飾る。紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立てる事、是も近世のならわし也。出世の魚といえる諺により、男児を祝するの意なるべし。但し東都(江戸)の風俗なり」とある。鯉のぼりは紙製で、新しく作られた飾りであり、江戸の風俗であると記されている。幟や冑人形に比べると、新しく、またエリアも江戸に限定されたものだったといえよう。
昨今の住宅事情から「屋根より高い鯉のぼり」を見る機会は少なくなった。全国で、鯉のぼりを一斉に遊泳するイベントが行なわれていて、勇壮な姿は、さも伝統的と思われたがちだが、行事としては比較的新しい形なのである。
さて、話をもとに戻して、節供の本来の行事について、もう一つ考えてみよう。
端午の節供のアイテムとして、菖蒲の他、粽などが作られる。この他、柏餅なども食される。今回の写真は北海道の端午の節供に食される「べこ餅」である。餅は葉の形をし、笹が敷かれている。
これらの餅に共通するものは何か。それは葉が包まれる、もしくは敷くように用いられるという点である。粽の茅をはじめ、柏、笹、茗荷など、全国各地で様々な葉で包まれた餅が、端午の節供に食されている。なぜだろうか。
用いられる葉には、茅、柏、笹、茗荷など、殺菌作用をもつものばかりである。夏に向けての時期は、食物の足は速くなる。病にならないよう、供する食物を守る意味でも、これらの葉は用いられた。
現在では本来の季節と些か異なっているため、葉の意味を知る機会はなかなかないかも知れない。美味しい柏餅や粽を食しつつ、伝統的な行事の本来のあり方を、改めて考えるのも一興だろう。