(2015.05.10公開)
現在、京都国立近代美術館で開催されている「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」展を先週見てきた。この企画展は台湾に拠点を置くヤゲオ財団が所蔵する現代美術のコレクションを紹介したもので、とくに西洋と中国の質の高い現代美術作品を収集していることで近年世界的に注目を集めている。一年近く前に東京の国立近代美術をかわきりに、名古屋市美術館、広島市現代美術館、そして京都国立近代美術館の順にコレクションの一部が公開されてきた。
ヤゲオ財団コレクションはヤゲオ・コーポレーションのCEOであるピエール・チェン氏が選定したものであるために、たとえば日本の公的な美術館の収蔵品と比べると明らかにある種のこだわり、あるいは偏りのようなものを感じるが、逆にそれが面白い。アンディ・ウォーホルのシルクスクリーン作品《ジャッキー・フリーズ》や《自画像》、マーク・ロスコやゲルハルト・リヒター、そしてサイ・トゥオンブリー、アンゼルム・キーファーといった欧米出身の有名画家の作品、あるいはサンユウやザオ・ウーキーなどの中国出身画家の絵画、さらには杉本博司やトーマス・シュトゥルート、アンドレアス・グルスキーの写真、ロン・ミュエクやマーク・クインのポップな立体作品などが会場に並べられていた。
展示されている作品はどれも質が高く見応えのあるものばかりだったが、とくに興味深かったのは、これらの作品ではなくピエール・チェン氏の自宅やオフィスを写した複数枚の写真である。今回出品されている絵画や立体作品が普段設置されている様子を来場者に伝えるための写真だ。インテリア雑誌に載っていそうなモダンで洒落た部屋に、今見てきたリヒターの絵画やシュトゥルートの作品が装飾品のごとく壁に取り付けられている。ピエール・チェン氏は、アートとともに生活するというスタイルを実践しているらしい。
アートとともに生活すること自体は難しいことではない。ただ、途方もない金額の現代美術作品をプライベートな生活空間に並べて日常的に享受することができる者は世界中を探してもごく僅かであろう。キーファーもトゥオンブリーも、美術館に行けば鑑賞することは可能だ。しかし、それは静かなホワイトキューブのニュートラルな空間、つまり生活空間とはまったく異なる場での体験である。つまり作品の前に立ち、それを美術史に正しく位置づけ、その意味について思いをめぐらす、というような鑑賞方法である。美術作品、とくに現代美術の作品には、何か深い意味があって、漫然と外面だけを見ていてもそれを理解することはできない。だから精神を集中する必要があるし、美術について学習しなければならない。こんな風に考えている人が少なからずいるはずだ。
しかし、そうした極度な集中を強いられる鑑賞方法だけが正しいとは限らないのではなかろうか?目の前に作品があることを忘れ、ふと我に返って何気なくそれを見つめる、そんな作品との接し方があってもいいだろう。コーヒーや酒を飲みながら鑑賞しても何か新しい発見があるかもしれない。などと考えながら企画展示室を後にして、京都国立近代美術館のコレクション展を見るために上階へと向かった。
その一角で「PARASIGHT・・現代美術コレクションを中心に」という展示がなされており、そこにマルセル・デュシャンの代表作《泉》(1964年に再制作)と《自転車の車輪》(1964年に再制作)が出品されていた。20世紀美術を牽引した天才の作品を見ながら考える。たとえば、こうした既製の日用品をそのまま流用したレディ・メイドの作品、これを生活空間に置いて鑑賞してみたら何か新たな発見があるのだろうかと。しかし、ほぼ既製の工業製品そのものである小便器や自転車の車輪を生活空間に置いたとしても、ただ日常の中に埋没するだけのような気がする。むしろレディ・メイドの作品などは、美術館という非日常的な空間にあってはじめてその真価を発揮するのではないか。今回訪れた京都国立近代美術館では、期せずして美術作品とその設置場所、あるいは鑑賞方法について考えることになった。ちなみに「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」展と「PARASIGHT・・現代美術コレクションを中心に」の会期はともに5月31日(日)まで。
*写真:京都国立近代美術館