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#205

歴史の主成分
― 野村朋弘

歴史の主成分

(2017.03.05公開)

先週、名古屋へ出張した折り、脚を伸ばして伊勢へ向かった。
友人とともに中世の伊勢神宮に関する史料の校訂作業をしているので、大学院生の頃から幾度となく伊勢には通っている。夕方の外宮は参詣者も少なく静寂そのものだったが、翌日、内宮に向かうと日の出前から参詣者はおり、日中はおはらい町・おかげ横町とともに随分の人出だった。
伊勢神宮といえば、悠久の歴史とか、日本文化の源泉であるとか、聖地であるとか、日本の心のふるさとだとかといった、スピリチュアルなイメージが昨今では定着しているだろう。

さて、話を変えて、皆さんは「歴史」とは何で出来ていると思われるだろうか。

英雄? 風土? 文化?

答えは様々かも知れない。
それぞれが必ずしも不正解ではないが、厳密にいえば、不正解だ。
正解は「史資料」である。我々が歴史を理解して、歴史像を構築するために必要不可欠なものは、その時代に記されたものや遺物といった史資料に他ならない。
大名や天下人、また朝廷や神社の儀式も現在に史資料が遺されていなければ、事績も具体像も分からない。そうした史料に基づき考察するのが歴史学である。
「歴史」というと、とても身近なもので、時代小説などでも逸話の抱負な戦国大名や幕末維新の人が取り上げられ興味を持たれることが多い。しかし、歴史学とはイメージや伝承ではなく、エビデンスが必要である。遺された証拠(史資料)を丹念に読み解き考察した成果であり、それ以上の想像の世界には脚を踏み込まないのだ。かくして史資料から読みとれた研究に基づき、通史がまとめられる。

伊勢神宮を例に取ってみよう。伊勢神宮は垂仁天皇25年(一説には26年)に現在の場所に鎮座したとされ、今日まで伝えられている神社である。観光ポスターでもよく使われる五十鈴川に掛かる宇治橋は、伊勢神宮の内宮神域へ入る、とても象徴的なものとして古くからあるものとして思われがちだ。
しかし、史料を調べてみると、古くは五十鈴川に橋はなく、室町時代になってから六代将軍足利義教が参詣した折に造られた。また宇治橋によって神域と、俗世界が区切られていると今日では言われているが、橋を渡った先にも伊勢のツーリズムを担った御師の館が多く在ったという。正殿に至る参道も古代・中世と今日では異なる。近世までは正殿の脇にも参詣客が訪れており、現在とは異なった賑わい方をしていた。
明治維新を迎え、伊勢は神都としてのイメージを付与されて、神宮は荘厳な皇祖神の社として整備されて今日にいたる。そう、我々は時代のデザインによって、変化し整備されてきた今の伊勢神宮を見ているのだ。
古いものといえば、正殿に向かう途中、神楽殿の横から風日祈宮に向かう橋(風日祈宮橋)に、明応の銘がある擬宝珠がある。これが中世からの用いられているモノといえよう。

ただ、 最初からやみくもに史料だけ読んでいても何がどういう由来で、 そこにあるのかは分からない。通史を理解していて初めて、由来やそれぞれのモノがどう繋がるかが見えてくる。通史とは現在の歴史の理解がどのようなものかを見通せる地図のような役割を果たすのだ。そのため、歴史の概論では通史を学ぶことになる。何が新しい発見なのかを知るために既存の通史を理解する。そして新知見によって、通史は書き換えられる。こうした繰り返しで歴史像は更新されていく。こんな話をすると、ただ 単に何がより歴史性があるかを判断するだけの学問と思われるかも知れない。

どこが古くて、どこが新しいか。あげつらうだけでは意味がない。どのように変化してきたのか。時代によってどんなデザイン、人の意図といってもよいだろう、それが影響して変化したのか。それを理解するためにも、史資料にあたることが必要不可欠なのだ。
時代々々のデザイン性を理解するためには、今日的な感覚でなく、該当する時代の感覚が必要である。感覚を養うため、各時代の史資料に直接アクセス出来る方策、それが歴史学といえる。

歴史学とは、古色蒼然とした学問で通史という不動の事実の羅列を覚えていくしかないと思われがちだが、決してそうではない。過去を生きた人々の声や考えを史資料に基づいて復元する営みである。その成果は通史へと更新される。
過去を知り、現在、そして未来へと役立てる。
歴史学の知識を経て、伊勢神宮をはじめ歴史的な文化遺産を見て廻れば、何気ない橋一つとっても、景色が変わるだろう。ひいては、様々なモノへの眼差しも変わってくる。それが学びの愉しみの醍醐味だ。簡単に習得できるものではないが、その愉悦を大学では味わって欲しいと常に思っている。