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アネモメトリ -風の手帖-

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#86

町のすきまを歩く
― 下村泰史

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(2014.10.26公開)

私の勤務先である京都造形芸術大学は、京都の中心市街地の北東にあたる北白川にある。町家の並ぶ中心市街地とは違った、庭付き住宅の並ぶ住宅街だ。
大学の最寄り駅は、叡山電鉄の茶山駅。無人のひなびた駅である。ここから大学までは歩いて10分くらいか。茶山駅で電車を降りてその前の道を東に行けば、白川通に突き当たったところが本学である。訪ねて来られる方は参考にしてほしい。
さて、この道がなかなか味わいがあるのである。特に駅の近所の自転車屋さんや古道具屋さんは年を経ているようで建物も味わい深いし、東へ向かう道そのものも時にうねり、時に狭まったり広がったりして動きがあって楽しい。古い街道のようだ。
赴任してしばらくはそんな風にその道を歩くことを楽しんでいたのだが、ある時妙なことに気づいた。大学は山にあるのだが、その西側平地に広がる街は整った住宅街で、どの道もまっすぐで、交差点はきれいに直交しているのである。そんななか、この駅からの道だけが生き物のようにのたくっているのである。これは不思議なことのように思われた。
この道が古いものであることは確かなようだ。でもなぜこの道だけが残ったのだろうか。特別に貴重なものとか際立ったものがあるようにも見えない。そう思ってその道の景色を眺め渡すと、他の道との違いが急に浮かび上がって感じられてくるのだった。
いろいろ調べてみると、この道が明治以前から「修学院村」と「白川村」「田中村」の境界線であり、大正7年から昭和6年の間には京都市の北限で郡部との境界であったこともわかってきた。南側の白川村、田中村の市域編入の方が10年ほど早かったのである。時間差が生んだ境界性といえるだろう。
両側が同時に開発されてしまえばこの道もきれいに直線化されてしまっただろうと思うのだが、そうはならなかった。この道「茶山街道」の南側では昭和ヒトケタ時代から土地区画整理組合が設立されインフラの整備が行われた。北白川土地区画整理組合と平井高原土地区画整理組合である。道はその事業区域の北端となった。この道が境界ではなく区画整理の地区内にあったのであれば、何の問題もなく直線状に付け替えられただろう。地区界であったが故に、道のうねうねは地区の外形をふちどるものとして残ってしまったのである。道の北側で一乗寺土地区画整理事業が事業化されたのは昭和30年代に入ってからであるから、戦争を挟んで20〜30年の開きがある。この道がもともと持っていた境界的な性格と開発の時間差とが、この道にうねるような姿を残したものであったのだ。
このことを知ってからこの道の南北を眺めると、それまで気づかなかった違いが見えてくる。南側が住宅地として古色を帯びつつあるのに対し、北側にはまだ田畑も残り田園の気分を残していることに気づく。
この道の風景は、近代の区画整理のすきまで生まれたものであった。そのことを念頭に置きつつ地図を眺めてみると、尋常でない町割や消えた川の痕跡など、いろいろなものが見えてきた。それまでなんのことはない普通の町の景色だったものが、さまざまな歴史の層をまとったものとして見えてくる。そしてその層のほころびの向こう側に、その地域に生きた人たちの営みが見えてくるのである。
おそらくこのような歴史の痕跡は、どんな町にも多かれ少なかれあるものなのだと思う。その痕跡に気づくことができると、そしてその来歴を問い尋ねる方法を知っていると、自分にとっての町の意味が変わってくる。地域の歴史性を与えられた情報として知るのではなく、自分自身で見出していくということ。それはすべての「地域における表現」の基盤となる経験なのだと思う。
謎をさがす散歩に出よう。