(2016.11.13公開)
藝術学舎で「ハワイ神話とフラ」という講座を立ち上げ、今年で三年目を迎えた。フラとは、「フラダンス」の名で知られるハワイの伝統舞踊のことである。そのブームがいつ頃始まったのか確認できていないのだが、日本では主に女性、とりわけ中高年女性の趣味として全国各地に普及しており、一般的にはそのような印象で見られることが多いだろう。
だがこの講座では、フラの実技だけでなく、ハワイの神話や背景にかんする座学を組み合わせているのが特徴だ。このような形式の講座は、おそらく日本では他にないのではないか。
講座には、「全身で伝える文学」という副題をつけた。フラが文学だなんて、意外に思われるかもしれない。だが私は、フラという舞踊の理解として誤りではないと考えている。なぜならフラとは、かならずハワイ語の詩がともない、その詩をからだで表現する踊りだからである。このようなフラの本質は、たとえばハワイに所縁の深い人々の次のような言葉にも表れている。
「手の動きや足の動き、それに表情などで詩的感情を表現するもの」(フランク・カワイカプオカラニ・ヒューエット*)
「はじめに詩があり、それに節がつき、振りが添えられてフラとなる」(池澤夏樹)
これらの言葉どおり、フラは詩と一体になったものなのだ。とくに古典的なフラ・カヒコの場合、ともなう詩はたんにメロディーを飾るものではない。ハワイ語は元来文字をもたない言語である。文字を刻んで書物に残すという方法を採らず、王族の功績や系譜といった共同体の重要事を記憶するのに、オリと呼ばれるチャントが用いられた。これは日本の祝詞のようなもので、じっさい聞いてみればそれに近い印象を持つはずだ。言葉によって違う音の高低と独特の節回し。これをフラの踊り手が指先の表情や目線で可視化する。下半身は主にリズムを刻む役目を果たす。こうしたオリとフラの併用が、文字を持たないハワイ人の記憶術、継承術として機能してきたのではないか。
王族の名だけではない。火山の女神ペレや雪の女神ポリアフなど、火山島であるハワイ諸島の自然を反映した一連の神話もまた、フラの詩の題材となる。ポリネシア文学の金字塔ともいわれるこれらの口頭伝承は、ハーラウ(フラの学校)を通して密かに受け継がれ、今でも場面場面を切り取った無数の曲が残っている。
カメハメハ一世がハワイ諸島全体を統一し、王国を打ち立てたのは18世紀末頃、つまり近代に入ってからだが、イギリス人がこれらの島に上陸し、西欧との関係が始まったのは奇しくも同じ時期だった。これがわずか一世紀というハワイ王国の短命につながることになる。戦略家だったカメハメハ一世の時代には、貴重な白檀の輸出などで王国は栄えるが、王の死後、キリスト教をはじめとした西欧文化の影響が増大してくる。
共同体の聖性維持のためかつて隅々に行き渡っていた禁忌は破られ、無意味とされるようになった。また、宣教師らの目には、肌を露出し裸足で踊るフラは淫らなものと映り、公の場で踊ることは禁止された。そのため、王族の系譜を記憶するための「名前歌」もフラも、人目を避け、隠れてしかおこなえないものとなった。
七代目のカラーカウア王はハワイの芸術振興に大いに力を注ぎ、この王の時代に今あるかたちに近い、西洋音楽に合わせた現代フラが登場する。しかし政権へのイギリス、続いてアメリカ合衆国の介入は激しさを増す一方で、ついに1893年、リリウオカラニ女王を最後の君主にハワイ王国は終焉を迎える。
以後、「アメリカの観光地ハワイ」の歴史が始まる。そのなかでフラは、禁じられていたのが一転、半裸の女性が腰を揺らして踊るダンスというセクシュアルなイメージを付与され、ハリウッド映画などで紋切型の扱いを受けることになる。
現在もなお、日本人にとってハワイといえば観光地なのだろうが、毎年日本からも観客が押し寄せるフラの祭典、メリー・モナーク・フェスティヴァルの存在は少し意味合いが違っているかもしれない。この祭典に出場できるのはハワイ発祥のハーラウの踊り手だけであり、観客は勇壮な男性の踊り、優美を極めた女性の踊りなど、質が高く迫力ある踊りの数々を鑑賞することができる。今ではチケットの入手も困難なほど賑わいを見せているが、もとは1971年、失墜したハワイ文化の復興を目的として、ごく簡素に始まったものだ。
フラという舞踊が本来もつ文化的豊かさと、価値を見出されてからの歴史の浅さ。フラのことを調べるにつけ、この対比が気にかかる。
*ハワイのチャンター・作曲家