アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

空を描く 週変わりコラム、リレーコラム

TOP >>  空を描く
このページをシェア Twitter facebook
#66

だれかの面の皮
― 下村泰史

sora_13

(2014.06.08公開)

「ごちそうさん」も終わり,「花子とアン」が始まって早二ヶ月。なのに未だ「あまちゃん」のことを思いだしてしまう私である(唐突だがNHKの朝の連ドラのはなしです)。
たいそう入り組んだストーリーで,私の曖昧な脳ではその全体を明瞭に思いだすことはできない。アキちゃんの横顔や夏ばっぱの家まで聞こえる潮騒,きたてつ沿線の風景などが,断片的に思いだされる。自分の記憶が断片的であるのと似た形で。
そんな断片の中に「欲の皮の突っ張った大人たち」というのがあった。夏ばっぱにそう言われていた人たち。春子を東京に行かせまいとした市長や,アキやユイに歌わせようとした大吉,その他の大人たち。地元に彼女たちを縛り付けようとした人たちである。
しかし,その大人たちの中に私利私欲で行動する人はいなかった。いずれも観光などを通して地域おこしをしたいと願う,どちらかといえば公徳心ある人たちであった。
では彼らの「欲」とは何だったのか。「私欲」ではなく「公欲」とでもいうべきものだったのか。そう考えるとよくわからなくなってくる。
私たちはふつう,欲望というのは個人の心の奥の方にあって,理性やらなんやらによってコントロールしたり抑制したりするものと考えがちである。だからか,個人より上だったり外側だったりするように見える,公的な次元の欲望というのは,なんとなく想像しにくい。

「欲の皮」は誰の顔で突っ張っていたのか。「公的な欲望」の主体は誰なのか。

話は変わるが,よく「利権」とか「既得権益」といった言葉を耳にする。ほかにもいろいろあるけれども,私がいた土建業会なども槍玉に挙げられることが多い。こうした業界は外からみると,現代の他の世界では通用しにくい習慣によって不当に利益を得ているように見えるし,実際そうだよなあと思われることも多い。しかし,その内部にも多くの人々がいて,社会がある。そして彼らの間ではその業界の習慣を保全していくことは,「公的」かつ崇高な理念であり,正義であったりする。金まみれに見える業界でも,その中で私利私欲で動いている人は外で想像されているより少なかったりする。むしろその小さな世界の中での「よきこと」を奉じて,それなりに誠実に生きていたりするものだ。
「談合」というのが問題になったことがあった。自由な競争を阻害し落札価格を引き上げるものであり,前近代的であり現代の市民社会においてはとんでもないことであるとされた。それは確かに世の中一般から見ればそうなのだが,その業界という公的な空間の中では,「談合」は共存共栄のための話し合いなのであり,そんなに悪いことではない,という雰囲気の意見もある。そして関わるひとりひとりは,彼らの社会では普通に給与をもらっている真面目な社員だったりするのである。
このどちらが正しいのか,というようなことは,ここではあまり興味がない。興味があるのは,外部からは談合を行う人々は汚らしい欲望まみれの人々に見え,内部からはそのひとりひとりは無私の人のように見えるということである。外から見たとき,その集団の顔が「欲の皮」を帯びて見えることがあるということである。しかしその「欲望」の主体は,誰なのだろうか。「会社」や「業界」,「市町村」や「国家」は「欲望」を抱きそれを味わうことはできるのだろうか。

「誰が主体なのかわからないもの」というのは他にもある。近年いろんなところで行われている地域系アートプロジェクトに足を運べば,点在している作品の中に,一つくらいは「地域の記憶」を扱ったインスタレーションがあったりするものだ。そういうところにいくと,古い写真とか,地域のさまざまなエピソードをテキスト化したりしたものが素材に使われていたりする。そういうものが上手く構成されていると,それなりに感慨深い経験になる。
なるのだけれど,でもそれは「記憶」なのだろうか,とも思うのである。可視化され,不特定多数の視線に曝されるそれは「記録」ではないのか。またそれは誰の「記憶」なのか。「記憶」と「地域性」や「コミュニティ」とは一見極めて親和的に見えるものの,そこにアーティストが何も問わずに乗っかっていいのか。「地域の」記憶,なんて言っていいのか,とも思うのである。多くの場合,記憶の主体についてのなんらかの混濁したものが含まれているようだ。個人の内奥にある記憶を,コミュニティレベルの公的な次元に位置づけるときに何が起きるのか。そのことによって「記憶」はコミュニティそのものが回想し味わうものになるのか。
というわけで,「記憶」の文字が附された地域系のプログラムについては,ちょっと意地悪い目つきで見てしまうのであるが,かく言う私も,もろにそういうプロジェクトに関わってきた。詳しくはまた改めてご紹介したいが,「天若湖アートプロジェクト/あかりがつなぐ記憶」というものである。これは,ダム湖に沈んだ家ひとつひとつの直上の湖面にあかりを灯し,夜のくらい水面上にかつての村の広がりを再現するという大規模なインスタレーションである。実際このあかりを昔そこ,つまり沈んだ村にお住まいだった方々が見て,あそこであんなことがあったこっちではこんなことがあった,と凄い勢いで昔の村のありようを話始めた場に居合わせたことがあったから,これが「記憶」に関わるインスタレーションであることは確かかなとは思っている。
結果的に「あかりがつなぐ記憶」は,見るものにおいて「記憶」を引き出す装置のような仕事をしている。ここでは「記憶」の内容をいじくるという作業は介在していない。記憶そのものは素材や操作対象ではない。そこに仮構されているのは,「回想する」身振りなのだろう。このインスタレーションでは,湖がかつての村の様子を思いだしているのだ。ここでは公的な次元に置かれたのは,直接借用された「記憶」のコンテンツではなく,おそらく「回想する」主体としての風景なのである。風景に面の皮をかぶせて見せた,ということになるのだろう。

ある感情や欲望を持っているとされ,そのことによってくくられる集団がある。それらは,外部には脂ぎった顔を曝しているのだが,内部では涼しい風が吹いている。「欲望」の外皮は彼らの「公」の天蓋に纏われるもののようだ。
街頭で声を張り上げる野蛮なレイシストたちや,原発の維持に固執し続ける原子力村の人々においてさえ,その涼風は吹いているのかもしれない。彼らは自身の欲望を欲望として知ることがないのだろう。「欲の皮が突っ張った顔」のありようをその内部に届ける特別な装置が必要なときがあるのだと思う。その装置を仮構する技術を研究するのも,藝術の仕事なのかもしれない。

そんなことを考えながら,録画しておいた「あまちゃん」総集編をまた見てしまったりするのであった。「次の歌は,鈴鹿ひろ美『潮騒のメモリー』です・・・。」