(2014.03.17公開)
3月も中旬を過ぎると、小・中学校や高等学校、そして大学と、卒業式が行なわれます。都内でも電車に乗ると、スーツ姿や袴姿の若者が見られるようになります。
本学の瓜生山キャンパスでも、卒業・修了制作展が開催されており、3月14日には卒業式、つまり卒業証書授与式が行なわれます。
さて。卒業式に関する諸行事は、日本人にとって、3月の馴染みの風景といっていいでしょう。
今回は、こうした卒業式の起源について取り上げてみたいと思います。
テーマである卒業式の歴史について見ていきましょう。
江戸時代までの学校とは、武士であれば幕府の昌平坂学問所、藩学や郷学、庶民では寺子屋といったものです。中でも庶民が学んだ寺子屋の数は多く、元禄年間くらいから急激に増えていったようです。「手習い」を中心とする学びが庶民にも広がっていたことを示しています。
寺子屋に入る時には、「寺入り」や「坊入り」という入学の行事が行われていたのですが、学びを終えた行事では、「淩」と呼ばれる試験がありましたが、卒業式のような行事はありませんでした。
時代は明治維新を迎えます。政治、社会、経済と様々な変革がなされていく中で、教育制度も改革されます。明治5年(1872)、近代教育制度としての学制が調えられ、学校が設立されていきます。設立当初の学校は、現在のような同じ年齢の子ども達が同時に学び始める「学年制」ではありませんでした。「等級制」という、年齢は関係無く、進級するためには試験に及第しなければならないものだったのです。「卒業」ということばは、この各級を進む際にも用いられ、学校教育の修了を意味するものだけではありませんでした。
進級試験は、ペーパーの他、口述試験もあり、さながら、現代の大学の卒業研究の口頭試問のようですね。
また、試験には教員の他、役人や保護者・一般の参観者もいて、とても緊張感のあるものでした。とはいえ子供達にとっては、まさにハレの日。試験日は卒業をかけたクライマックスの日なのです。そのため桍羽織など着飾って出席したといいます。
何故、ここまでして試験は行われたのか。それは、学校教育を受けていない明治初期の大人達にも、学校教育とは何かを知らしめ、また、学問に優れた者は立身出世できるという認識を植え付ける意図がありました。
ともあれ、多くの人々で賑わう試験日は、イベント性も高く、学校の門前には露店が並ぶといった風景も見られたようです。これが、試験と卒業式を同日で行うのは大変ということで、別々の日となり、卒業式は盛大化していきます。明治前期の学校の卒業式とは、地域の人々を集める行事となりました。
地域の人々が集まるということで、イベント性は更に強くなります。余興や興行も行なわれるようになります。例えば、明治24年(1891)の4月13日に行なわれた東京の尋常中学校の卒業式では、午前が卒業式、午後が運動会が行われました。差配する教員の大変さは想像するに余りあるものです。
また、別の地域では、幻灯会が開かれるなど、多種多様に行なわれていました。
幻灯とは、ガラス板に描かれた風景や写真を、スクリーンに投影するものです。明治になってから日本に広がったハイカラな文明の一つです。
さて。先にあげた尋常中学校の卒業式を4月13日と書きました。そう、卒業式(学校暦といってもいいでしょう)は、明治前期において、今日の我々が思い浮かぶ3月の風物詩ではなく、地域によって時期がバラバラだったのです。
これが明治10~20年代の教育制度の改革によって、整えられていくのです。
明治19年(1886)の第一次小学校令によって学校制度は全国的に整備されます。続く、明治23年(1890)の第二次小学校令では、同25年の4月1日をもって学年始とすることとし、明治33年(1900)の小学校令施行規則で明文化されます。また、この時に、等級制は学年制へと改められます。同時に学年が進級する修業と、学校過程を終える卒業が区別され、卒業は、学校教育の修了だけを示す言葉となったのです。
3月の卒業は小学校だけでしたが、翌年には中学校、大正8年(1919)には高等学校も4月入学・3月卒業へと移行します。大学はイギリスやドイツの大学を模して9月入学を続けていましたが、大正10年(1921)頃から4月入学へと変更されます。
こうした近代の教育制度の変更によって、3月の卒業式は全国に定着することとなりました。また学年制ですので、同じ年の子供達が、揃って卒業を迎えるようになります。個別の思い出が、共同の記憶となりました。我々が思い描く3月すなわち卒業の季節とは、こうして成立していったのです。