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アネモメトリ -風の手帖-

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#390

いじりつづける
― 下村 泰史

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私は通信教育部芸術教養学科というところで働いている。ここは人間の創造的な営みであれば何でも取り扱うという、総合的学際的というか大変大風呂敷を広げているというか、大変気宇壮大な部署で、所属教員の専門もいろいろである。バリバリの空間デザイナー、芸術理論の研究者、落語の研究者、ワークショップ・ファシリテーションのプロ、といった面々に混じっている私は、農学部の出身で造園が専門である。
そういうこともあって、他学科のランドスケープデザインの授業で教えることもある。そこでは、「造園とは?」といったことも考える。造園とはなにか。
緑地とはなにか、ということについては、私が学生時代に教わったことでは、「生物的原理が優占する非建蔽地」とのことであった。確か、教科書として使われていた朝倉書店の『緑地学』にこの言葉があったような気がする。「生物的原理が優占する非建蔽地」というと、とても難しいことのように重されるが「生物的原理が優占する」というのは、どちらかというと草や木が生えていたりする、というようなこと。「非建蔽地」というのは建物のない場所ということのようだった。要は、草や木が生えているような空き地のような場所が、緑地学の対象だということだ。
この漠然とした緑地も、生態学的な機能等を考えていくとそのままでも意味深いものだったりするのだが、このままではボーボーであり、床屋に行かず洗髪もしていない頭部のようなものである。これを、美しく意味深いものに変容させていく技が「造園」ということになるのだと思う。
日本では造園業は建設業の一部門として扱われる。建設業のメジャー部門には建築や土木があって、「造園とは?」ということを考える時には、これらの分野との比較から考えることが多い。

・(建築や土木と異なり)図面がすべてではなく、現場で当意即妙のデザインが行われる。
・(建築や土木と異なり)生きた植物などの自然材料を用いる
・(建築や土木と異なり)竣工時がピークではなく、育成管理によって空間価値が向上する

というような感じだ。第三点目についてはややわかりにくいかもしれないが、主に植物が育っていき、それに適切な剪定等を加えていくことで、より良いものになっていく、ということである。道路やダムなどの土木構造物は、建設工事が完了し目的物が完成した時点が最高の状態であり、そこからの劣化・老朽化を最小限に留めるために維持管理がなされることになる。使われることによってよりよくなる、ということは土木構造物の場合にはないといってよいだろう。建築についても、ほぼ事情は同じだろう。建設完了時が性能的にはピークである。ただ、住宅や商店などの場合、その使われてる感、生きられてる感といったものが、その空間を味わい深いものにしているということはある。使われる、生きられることによって良いものになる側面があるというのは、建築のモノとしての性能とは別のものではあるが、空間のデザインを考えるうえでは、大事なことだと思う。
造園においてはゼロから完成までの建設プロセスと、その後の育成管理のプロセスが一貫したものとして捉えられている。ここでは生活の中で使われることと、専門の植木屋さんに手入れをしてもらう育成管理というデザインプロセスとが、近しいものになっているのだろう。この専門性と生活の近さは、造園という分野の、ある意味麗しい前近代性といえるのかもしれない。

植木屋さんや街中の生活者・非専門家が庭のみどりをいじることが、地域の環境を五感に心地よいものにしていくことを、中村一は『風景をつくる』(昭和堂、2001、尼崎博正との共著)の中で「風致のデザイン」として重視している。

今、私たちの身の回りを見渡すと、ほとんどのものが既製品である。机の上のカップから自家用車、衣類、家具、スマートフォンや家電類その他、いずれもどこかの工場で作られたものだ。百均で売られているものも、何千万円もする高級車もそうだ。ベランダや庭の草木というのは、生活者が自分でいじれる数少ない余白なのかもしれない。
そうした余白は、他にもないのだろうか。生活者が手を動かして、身の回りを変容させていくような場面はあるだろうか。

最近スーパーカブを入手して凝っているので、カブが特集されている雑誌を見かけるとつい買ってしまう。そんなわけでつい買ってしまったバイク雑誌『モト・チャンプ』(2025年10月号(特集:スーパーカブ歴史探訪、三栄))に、とんでもない付録が付いていた。
それは、「イトシンの軒下整備工場 スペシャル・セレクション」(註1)という、冊子だった。開くと今でいうところのエッセイ・コミックのような形式で、小さなバイクを直したりチューンアップしたりする、悪戦苦闘の数々が描き出されている。素人が軒下でうんうん唸りながら、一旦完成された製品をどんどん変容させていく、そのノウハウがコミュニティに伝播していく、そういう文化の分厚さを感じさせるものだ。生活する人々が手を動かして、素晴らしい冊子なので、ぜひ手に取って読んでみてほしい。ここには、生活者が完成したプロダクトに絶え間なく手をいれ続けることへの全面的な肯定がある。

最近は、コンピュータはもちろん車もバイクも精緻化、電子化が進んでいて、素人がいじれる余地はなくなってきている。コンピュータについては、修理窓口等もメーカー側が厳密に管理するようになってきていて、それに抗する「修理の自由」の運動も起きていると聞いたことがある。
一方、かつては一生モノだったカメラなども、電子化が進むとともに、陳腐化しやすい製品になった。自動車もまた然りである。一つのものを長くいじるというのが、いつのまにか難しくなってきたようだ。

こんな時、「風致のデザイン」も、「軒下整備工場」も今読むと、高度に専門化され産業に組み込まれた「デザイン」に対する、ユーモラスながらも鋭い批判になっているようにも思われるのだ。

生活者が手を動かして、身の回りの環境を一層美しく、面白いものにしていく、というのは、京都芸術大学通信教育部が目論んでいることでもある。芸術作品においてはそれはいつも可能かもしれないが、プロフェッショナルな業とされる「デザイン」に、ふつうの人が割り込んでいくにはどのような経路があるだろうか。プロのデザイナーによって出来上がってしまった製品や場所を、いじりまわして変えていくカスタマイズの世界には、その一つの道筋があるように思う。こういうアナーキーなカスタマイズのデザイン思考についても、考えていきたいと思う。

註1:「イトシンの軒下整備工場」は、1980年の創刊時から2009年に休載されるまで、ほぼ30年にわたりこの月刊誌に連載されたという。後記によれば、登場キャラクターでもあり執筆者でもあった伊藤信さんも、もう一人の登場人物である井上社長も、今では亡くなられているとのことであった。なお、『モト・チャンプ』誌も、2026年2月号をもって休刊される。