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アネモメトリ -風の手帖-

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#378

うどんスタイル
― 上村博

???? ンショッ ? 2024-0 9-30 15.57.22

本コラムで麺類のことを書くのは何度目だろうか。ふだんの食べ物として麺が好きということもあるが、そもそも麺というものの形状が不思議で、気になってしまう。
実際、炭水化物に塩分や具材をあわせて摂取するための食品としては、ある程度の表面積と口への運びやすいまとまりがあれば、麺に限らずいろんな形状が可能である。日本のご飯粒のように粘度のあるものはそれだけで便利だが、もっとパラパラした米やクスクスでも汁に浸せば食べやすいし、パン、ピタ、ナンなども自在にちぎって食べやすい。それなのに、それらに比べるといかにも手間のかかる形状の麺類が世界各地でそれなりに多様に作られ食されているのは、ちょっと不思議なことである。日本だけでも、うどん、そばに限らず、そうめん、ひやむぎ、ほうとう、ひもかわ、きしめんなどなど、太さや厚さの異なるさまざまな麺がある。しかもどれも単に小麦粉を捏ねて細長く裁断したというだけでなく、実に手間暇をかけて作られる。塩加減、水加減、力加減もそうだし、寝かしたり捏ねたり引っ張ったり、さらには乾したり熟成させたりと、まあ大変な作業である。三輪そうめんの細い麺の中心にこれまた極細の空洞を見つけると、その繊細、綿密な仕事に溜め息が出る。そんなにしてまで麺の需要があるのは、やはり古来麺が食べたい人間が多かったのだろうし、またその手間暇をかけるだけ麺はごちそうだったのだろう。
麺という形状の話に戻れば、これは実に箸を使って食べるのに適していて、手づかみでもスプーンでも麺はきわめて食べにくい。また逆に粒食は、ねばっこい米飯を別にすれば、おおむね箸が苦手とするところだ。箸にも棒にもかかりやすいのが麺である。しかしまた、麺は単にその一本の細長い形状だけが有利なのではない。麺を箸で挟むなら、当然それは一本限りというよりも、5〜6本、多ければ10本程度の麺がひと挟みにすくい上げられる。そうして口に運ばれる麺は相応の分量となって食べごたえがあるうえに、複数の麺と麺との狭間には汁気が含みこまれて美味である。麺という言葉を見て一本だけの線を思い浮かべる人は少ないだろう。麺は複数あるもので、並行して、あるいは絡まり合って役に立つ。
麺にかぎらず、線状のものは人間の生活にたくさんある。麺線状の構造は、しなやかに自在に屈曲しつつ一体性を保つ、きわめて優れた性質を持つ。実際そのお陰で身体も布地も建物もなりたっている、人間存在には欠かすことのできない利器を作るものである。世の中に物質は充満していて、分子が組み合わさって形作られるモノは無限に多様な種類があってよいだろうに、そこに一筋に連なる麺線の構造体があって、有機体の組織や活動に非常に適した働きをしてくれる。
普段はそうした細長い弾力あるモノをことさらに注意して見ることはないだろう。筋肉や衣服の繊維はあまりに微細で見えないし、電線・コードの類も、仕事や家事での必要に迫られない限り、あまり気に留められるものではない。しかし、その複数の線からなる形状が気づかれやすい対象もある。そのひとつは先に書いた麺だろう。それは直接口に運ぶものであって、いやでも歯ごたえや味わいと麺の形状が結びつく。
そしてもうひとつ線が目を引く場合がある。それは線そのものを視覚化したような意匠である。縞模様やボーダーライン、渦巻き文様にアラベスク。直線、曲線を問わず、線は古来文様の構成要素として第一のものであろう。それは線が人間の空間認知にとって運動性を端的に示すとともに、有機体の最も原初的な構造を持つからではないか。まっすぐな一本線が速やかな進行や明確な分離を示唆するように、滑らかな曲線や螺旋が生命体の構造や成長を象徴するのは容易に想像できる。ただし、不規則な形状や有機体に満ちたこの世界では、直線や平行線のほうが異質であって、それだけに目につきやすく、文様として見えやすい。それに対して曲線的な構造は円や同心円的な渦巻きでもなければ、ちょっとわかりにくい。
とはいえ、文様としてはやや周りに紛れかねない曲線を目立たせる方法もある。そもそも平面的の上にそうした屈曲した線が戯れることを前提にした区画を設ける(たとえばケルト写本の1ページのように)ということもそうだろう。また複数の線を束ねつつ流れるように画像を象るということも、ひとつの方便だろう。アール・ヌーヴォーで描かれる髪や衣の襞は、一本線の輪郭で描かれるのとは違い、複数の線が流麗な形をつくる。まるで箸ですくったうどんのように、数条のなめらかな麺が優美にくねり、線そのものの主張を感じさせられる。
そういえば、アール・ヌーヴォーが登場したころ、その新しい形状が揶揄されて”Style nouille”(麺様式)と呼ばれたことがある。日本でも、神坂雪佳などはそれを「うどん」様式と呼んで茶化していたが、うどんや麺類が偉大なように、アール・ヌーヴォーも決して捨てたものではない。線が自律的に運動するさまは、ただの物質的表面をたちどころに生命の表現に変えるのである。