先日、東京は下井草のギャラリー五峯に行く機会を得た。友人の小川哲さんの個展をみるためである。哲さんは町田に天点窯を持つ陶芸家である。彼の作る盃は、飲んだくれとしてとても手に馴染む。ゼミ生への卒業祝いの盃をお願いしても、気さくに引き受けてくれる私にとっては大切な友人の一人である。ギャラリー五峯で毎年同じ時期に個展を開いており、仕事の合間ながらお邪魔して様々な話を聞くのが恒例の愉しみにもなっている。そんな彼の大小の様々な形をした皿や茶碗といった作品を眺めつつ、今年談義していたのが、「名付ける」という意味についてだ。
個展を開くと、よく尋ねられることがあるという。曰く「これは何に使うものなのですか?」と。ただ、そうしたことは作り手に聞かずとも、使い手として考えればよいのではないか、ということだった。「これは某皿です。」という名付けを行うことは、漠然と作品群をみている人にとって、まっさらな思考の中に一定の方向性を与え、安心感を得ることだろう。ただ、そうした方向性を示すことは、わかりやすくイメージを抱かせる反面、その他の使い方を想起させることを阻害する。
とかく人というのは、何か分からないものに対して「名付ける」ことによって、イメージや安心感を得る。また言い換えれば他者の「名付ける」という価値観に左右されることでもある。しかし、大小の様々な形をした皿や茶碗といった「生活工芸」は、元来、作り手の意図を逸脱して使い手によって自由に用いられてきたものだ。自身が良いと思ったものを使い、使いたいと思ったように用いる。それだけのことだ。「名付け」を聞くことによって、その自由さを手放してはいないか。そうした危惧を談義していた。
もちろん、歴史的経緯など様々な観点から用途がある程度定められているモノもある。例えば茶道で用いられている茶碗もそうだろう。天目や楽焼の茶碗でご飯を食べるという方は少ないだろう。あくまで茶、特に抹茶を喫するものと認識されている。とはいえ歴史的な文脈や作法を逸脱して「取り合わせの妙」を愉しむことも、日本史、特に近代史を紐解くと多くある。益田鈍翁をはじめとする近代茶人の多くは、「取り合わせの妙」を競った。そうした「モノ」を固定概念で括らない観点は、近年においても「モノからコトへ」といったマーケティング理論としてもさけばれている。
話を個展に戻そう。今回の彼の作品で特徴的だったのが「骨壺」である。今回のコラムのイメージ画像がそれだ。骨壺の造形は墳墓の調査や、肉親や知人の葬儀のときくらいしか見る機会がない。調査であると造形を意識するかも知れないが、自身が関わる葬儀のときであればなかなかそこまで意識が及ばない。如何にも陶芸家の視点らしい。しかし「骨壺」という「名付け」を聞くだけで忌避する人もいる。造形として美しいと思ったものを造り、それをどのように使うかは使い手の勝手次第。彼の作り出すものには、そんな意図が常に込められておりとても興味深かった。
学問で口を糊する身としては、学術用語はもちろんのこと、言葉の使い方、表現について厳密に考え実践しつつ教育活動を行っている。「名付ける」行為こそ大切にする。彼の様々な「生活工芸」ともいうべき作品群をみていると、それだけではない世界を経験できる。そうした視野の広がりを得られることが、私にとっての芸術のあり方なのかも知れない。
しかし「生活工芸」という概念で彼の作品を括ること自体、「こんな大仰な言葉に括らないでよ」と言われると思うのだが。