(2013.08.05公開)
地図との付き合いの原点は、国土地理院の5万分の1地形図だ。
登山に夢中だった中学・高校時代、この地図を片手に、東京から埼玉、山梨、長野にかけての山々を夏冬問わず歩いた。奥多摩から奥秩父をへて日本アルプスへと至る日本有数の山岳地帯は、深い森林帯から高山のお花畑、高層湿原など豊かな植生に覆われている。無数の生命体と鉱物によってできあがっている、3次元の有機的世界。このきわめて複雑な世界が、国土地理院の地形図上では5万分の1に縮小され、黒・茶・青の3色のインクだけで、2次元の図像として表現されている。
この大胆な抽象化を支えているのが、等高線の存在だろう。標高の同じ地点を連結させていくことで現れる、現実には不可視の曲線。このうねうねと複雑に入り組んだ仮想の曲線を「読む」ことを学ぶと、尾根と谷が襞のように連続する日本特有の山地の地形が、まるでジオラマのように脳内に立ち上がってくるのである。
物理学者の寺田寅彦は「地図をながめて」(1934) という随筆の中で、この地形図の価格の低さに対して得ることができる価値の高さを絶賛している。とりわけその中に盛り込まれた情報と知識の量は、言語によって翻訳しうるものではとうていなく、「等高線ただ一本の曲折だけでもそれを筆に尽くすことはほとんど不可能であろう」と書いている。
等高線が作り出す抽象的な図像を眺めながら次の登山の計画を練る時間は、高校生のぼくにとって、退屈な受験勉強という日常から抜け出すための悦楽の時間だった。いま思えば、登山は非日常への旅であり、その実現のために、夜な夜なグニャグニャとした等高線を眺めながらトリップしていたのだろう。
高校を卒業してずっとあとになってから気付いたことなのだが、フランスの詩人、アンリ・ミショーが幻覚剤メスカリンを服用して1950年代に描いたドローイングには、どこか等高線を思わせるものがある。
フランスを拠点に生活するようになってからは、フランス国内をはじめオランダやドイツ、スペイン、イタリアへと、自動車で長距離を旅する楽しさを知った。
荷室の大きなツーリングワゴンに家族ぐるみ乗り込んで、都市から都市へ、国から国へと、一回の旅で2~3,000キロは軽く走る。持っていく地図は、いつもミシュラン社発行の折りたたみタイプのロードマップだ。カーナビは使わない。地図として美しくないし、表示範囲が狭すぎるからだ。一息いれるついでに地図を車の屋根にべたっと広げ、ゆっくりとルートを検討するのがいちばん性に合っている。
ミシュランと聞くと、まっさきにレストランガイドを想像する人が多いと思う。たしかに質の高いガイドブックやロードマップの出版で名高い会社なのだが、じつはその本業は老舗のタイヤメーカーで、創業は1889年にさかのぼるという。
ミシュランのロードマップの基本となる「ナショナル NATIONAL」のシリーズは、国別の地図で、赤い表紙。これで旅程の全体像を把握する。旅の計画をたてながらあれこれ想像するときは、いつもテーブルの上にこの地図がある。
運転中に駆使するのは、より詳しい地方ごとの地図で、表紙がオレンジ色の「レジオン REGION」のシリーズ。20万分の1という縮尺表記のかわりに、ただ「1cm = 2km 」と書かれている。この合理性が好ましい。広大な山野に散在する小さな町や村々のようす、それらをつなぐ網の目のような地方道や森や小川の存在がこの地図でわかる。
ミシュランの地図は遠くから見ると、淡くぼんやりして見える。河川や森や集落を表す色彩はそれぞれ薄い水色、薄い緑、淡いオレンジ色で、無光沢の紙の表面にうっすらと地形の広がりを示している。幹線道路には赤や黄など原色が使われているにもかかわらず、彩度が微妙に押さえられ、視線を自然に次の町へと導く。
線は太すぎず、文字は大きすぎず、記号は目立ちすぎず、色は鮮やかすぎない。フランスの街並みにも通じる節度を感じさせる文字と記号の群れが、淡い色彩とともに広がる地形の表面を覆っている。神経網のように張り巡らされた道と、無数に散りばめられた村や町の名前。その一見無表情な広がりの背後には、そこでかつて起こった膨大な出来事、つまり歴史の物語が織り込まれているのだとは言えないだろうか。
そのことに気づくとき、「地図を読む」ことは時を巡る旅への入り口ともなるだろう。深夜にワインを飲みながら、地図を広げ、訪れた町にマーカーで印を付けていく。そして、まだ行ったことのない地方の田舎道をたどりつつ、村や町の名前をひとつひとつ読み上げてみる。宿屋があり風車があり狩り場がある。王や僧侶や聖人が現れては消えてゆく。そうしていつのまにか夜明けがやってくる。
ひとつ欲しい地図がある。19世紀頃のクラシックな地中海の地図だ。パリの友人が額に入れて仕事場に飾っていたのを見て、即座に眼を奪われた記憶がある。
何の細工もなく地中海がそのまま示されているだけの地図なのだが、海と陸とが逆転し、まるで海がひとつの大陸になったかのように見える。その水色の大陸の周辺には、旅心をくすぐられる名を持つ港湾都市が並ぶ。バルセロナ、ジブラルタル、アルジェ、チュニス、アレクサンドリア、テル・アヴィヴ、ベイルート、イスタンブール、アテネ、ヴェネツィア、パレルモ、ナポリ、マルセイユ…
ああそうか、これは地中海という名の大きな国、文化圏の地図なのだ。一般的にこれらの都市は、それぞれヨーロッパ、北アフリカ、中近東という異なった文化圏に属している、という見方が普通だろう。だが、地中海をひとつの大陸としてとらえてみると、アフリカとヨーロッパという地理的・文化的区分が消滅し、マルセイユとアレクサンドリアが「地中海国」の2都市としてつながる。
そして実際にこの両都市に滞在してみると、アフリカとヨーロッパ、2大陸、2文化圏の都市として地中海に隔てられているのではなく、地中海という水の大陸、ひとつの文化圏に属する、共通項の多い都市であることがわかる。たった1枚の地図が、海と陸を逆転することで、文化圏のありようが違って見えてくることを見事に表現しているのだ。
その地図をいずれ手に入れる日を思いながら、次の地中海への旅について考える。眼を閉じれば、深い青に輝く海と白く硬い光に満たされた風景が広がっていく。
小野 規 (おのただし)
写真家。1991年よりパリを活動の拠点とし、都市、建築、歴史といった主題をめぐる写真作品を制作、発表している。近年はフランスを中心にアジアの現代写真のキュレーションもおこなう。2011年より京都造形芸術大学美術工芸学科教授として、新設の現代美術・写真コースの立ち上げに注力中。共著に『Jean Tinguely – Le Cyclop』(Centre National des Arts Plastiques, Paris, 2007)。