(2013.03.05公開)
1999年の5月から半年間、信楽にある陶芸の森という施設で滞在制作していた。隣の制作室では韓国から招かれた職人が甕器という発酵保存食用の壺を伝統的なたたき上げの技法で作っており、壁越しに響くその音がいつのまにかぼくの制作のリズムを刻んでいた。始めはバンバンバン、すこし間があってパンパンパン、そしてペンペンペンという高い音に変化してゆくとどうやら完成らしく、そこでぼくも手を休める。中庭に面した回廊には1メートルを超す大壺が部屋から溢れ、日に日にその数を増していった。
そんな日々が淡々と過ぎ、その隣人は顔を合わせることもなく、いつしか帰国してしまった。部屋には大きな壺と使われなくなった道具が残されていた。その「たたき板」という道具は二種類あってぼくが今まで見たことない美しい形をしていた。信楽でその職人が赤松の木で作った道具を処分するというのでもらい受け、あの壺をたたく小気味よい音以外顔も名前も知らないその職人の道具は今はぼくの手になじみ、いつもぼくの仕事場の同じ場所にある。
道具には、手になじんだ分だけ、その先から生まれた作品の数だけ、確実に摩耗し、傷つき傷み、時には修理されながら育ってゆく、その一生と呼べるものがある。作品を作る主がいなくなり放置された道具ほどもの悲しいものはないが、その道具の形や肌に刻まれたキズやシミの美しさは、見知らぬ職人の手とその作品の間で長い時間と作業の末生まれた技の美しさだ。作ろうとして作った美しさではなく、制作の必然から生まれてしまった美は、時にその作品や製品以上に美しく、また自然界のどんなものよりも身近な美を感じさせる第三の美だと思う。
2010年韓国の蔚山で催された「蔚山世界甕器文化博覧会」に招かれ外古山甕器村で制作する機会があった。ふだん甕器的なものをつくらないぼくは、弥生時代から連綿と続き今消えようとしている日本の土器文化「蛸壺」を現地に紹介し蛸を愛する韓国の人たちの蛸壺と交換する「無人交換所」を作ることにした。現地で調達したリヤカーに台を組み蛸壺を並べ蛸漁の映像を流し、ハングルで粘土板に蛸漁の紹介と交換のお願いを刻み、待つこと三日目、その人は壺をさげてあらわれハングルで話しかけて来た。底の広い薄作りで緑釉のかかった壺を前に、身振り手振りで分かったことは、その人はこの町に住む職人で、蛸壺は1985年まで作っていたが現在は作っていない、明日工房を見せてあげる、ということだった。
今なお昔そのままの甕器村の登り窯のある風景は、丹波立杭の山里にも似た日本の焼物産地の原風景を想像させるものだった。日本で焼かれた蛸壺を前に、湯がいた落花生をつまみながら、アルバムを見せていただいて驚いた。信楽の写真と若いその人がそこにいた。あの時隣の部屋にはぼくがいて、目の前の人Bae Young Hwaさんの置いていった道具を今京都でぼくが使っていることを身振り手振りで伝えることが精一杯で、しかしそのこと以上にお互い何も語り合うことがない二人は、落花生の殻をむきながら、どこからともなく響いてくるあの時の音を聴いていた。
松井利夫(まつい としお)
1955年生まれ。京都市立芸術大学陶磁器専攻科修了。近年はたこつぼ漁、野良仕事を通して芸術の始源研究に没頭し人間の営みが芸術に変換される視点と場の形成、活動モデルの創造に「末端芸術」をキーワードとして取り組む。IAC国際陶芸アカデミー会員。第40回ファエンツァ国際陶芸コンクール大賞受賞。第17回ミラノ・トリエンナーレ招待など。