(2022.06.12公開)
個人ユニット「したため」を主宰し、舞台演出家として数々の公演を演出してきた和田ながらさん。日本では劇作家を兼ねる演出家が多い中、和田さんは演出家を専業としており、戯曲のみならず既存のテキストへのユニークなアプローチで公演を作り上げていく。『したため』ではサン=テグジュペリが宛てた手紙を台詞として引用し、三島由紀夫の戯曲『葵上』の上演では、戯曲が持つ視点とは異なる大胆な演出の変更を試みている。また『擬娩』では、妊娠・出産をモチーフに、男女の出産未経験の出演者らが、演劇的なフレームを借りて妊娠・出産をシミュレートする舞台を上演した。今回これらの作品を通して、和田さんのそのユニークな視点とふとした日常の事象を舞台へ巧みに浮かび上がらせる演出のプロセスを垣間見たい。
———まずはユニット名の由来ともなった卒業制作公演『したため』について伺えますか?
演劇の上演のために書かれたテキストを戯曲と呼ぶのですが、日本では戯曲を書く劇作家と上演を構築する演出家という2つの役割をひとりで兼ねる人が多いんですね。ただ、私は文章を書くのは好きだけど、戯曲を書くことはピンとこなかったんです。当時、何度か私が演出助手として公演現場につかせてもらっていた演出家の先輩が、劇作はせず演出に徹する方だったんですね。その影響もあって、学部の卒業制作公演を企画していた時は、自分が戯曲を書かなくても、面白いテキストに面白いアプローチができれば作品は成立するはずだという肌感覚がありました。テキストとの出会いを求めて大学の図書館をうろうろしていたら、サン=テグジュペリの全集に収録されていた書簡に目が留まりました。おそらく彼が好意を抱いていたであろう従姉妹に宛てたものだったんですが、返事が来なくて拗ねたかと思ったら、返事が来るとたちまち喜んだりしていて(笑)。彼の素直な感情が手紙にあらわれていて、非常に人間的なテキストだと感じました。送り主が手紙を書いている時には名宛人はそこにおらず、名宛人が手紙を受け取って読んでいる時に送り主はそこにいない、手紙というメディアに不可分の「不在」もモチーフとして興味深かった。上演では、3人の俳優が手紙の送り主という抽象化された存在として登場し、サン=テグジュペリの手紙を引用しながら、身振りを重ねていきました。この卒業制作公演のタイトルが『したため』で、ユニット名はそこから来ています。由来は、手紙を「したためる」です。
———現在でも戯曲は書かずに公演を行うと聞きました。
実際には、上演台本は書いたりするんですけど、演出だけやってます、ということにしています(笑)。こういう物語を描きたいとか、こういう世界を作りたい、こういう人間を見てみたい、そのような欲望や意思を持って戯曲というものが書かれるのだとすると、自分はそういう作り方はしていません。あくまで現場の要請に従って必要なものを書いている、という感覚です。処女作にはその作家のすべてがある、ってよく言いますよね。私はいまでも『したため』と同じようなアプローチで、本来演劇のために書かれたわけではないテキストを演劇に用いる作品が多いです。やっぱり最初の作品に色々現れていたんだなって思いますね。
———既存のテキストを演出するにあたって気をつけていることはありますか?
既存のテキストや戯曲を扱う時には2つパターンがあって 、自分が主体的になってテキストを決める場合と、誰かにそのテキストを提案される場合があります。自分からテキストを選ぶ場合は、基本的に好きなんですよね、そのテキストが(笑)。 衝撃を受けたとか、かっこいいなとか。自分がポジティブに受け止めたテキストを選んでしまう。ユニット設立当初は主体的にテキストを選んで公演を行うケースがほとんどだったんですけど、2015年に参加した演出家のコンペティションでは課題戯曲が決まっていたんです。ちなみになぜこのコンペに応募したのかというと、この年の審査員に名を連ねていたのが、演出家の岡田利規さん、松井周さん、前川知大さんとすごい豪華な顔ぶれだったから。その3人に同時に上演を見てもらう機会は今後絶対にない、これはやるっしょって(笑)。課題戯曲は二の次で応募を決めたんですね。それで後から課題戯曲を読んでみると、なんやこれってなった(笑)。
この年の課題は、能の謡曲を三島由紀夫が近代劇に翻案したシリーズ「近代能楽集」の『葵上』でした。原典は『源氏物語』の「葵上」です。戯曲の舞台は葵が入院している病室。原因不明で寝込んでいる葵を夫の光が見舞っているのですが、そこになぜか光の元カノ・六条がやってくる……という話で。実はこの六条は生霊で、葵を祟っているんですけど。戯曲では主に光と六条の会話が展開されていくので、普通だったらこの2人がフィーチャーされるんですけど、私は絶対にイヤだった(笑)。葵にはまともな台詞がなくて、ほとんど「う~う~」ってうめき声しか書かれてないんですよ。で、現在の配偶者である葵が苦しんでいるにもかかわらず、光は元カノとの思い出に浸ってる。なんだこいつ元カノといちゃつきやがって、葵がかわいそすぎるだろって、ほんとに怒りがわいてきて。全然好きじゃなかった。でも、コンペのルールで、戯曲は一言一句編集してはいけないという制約があって。演出家として、ひとりの観客として、書かれているすべての台詞を納得できるかたちで聞ける演出プランが必要となりました。
———和田さん版ではどのような演出となったのですか?(笑)
舞台左手前と舞台右手奥にベンチを置いて、光と六条のやりとりは奥のベンチでずっと後ろを向いたまま演じてもらいました。なので2人のイチャイチャも後ろ姿か、よくて横顔が見えるぐらい。手前のベンチには葵役の俳優が正面を向いて座っていて、始終煙草をフカしてるというしつらえにしました。葵は煙草を吸いながら「うーうー」って適当に唸ってる(笑)。過去に耽溺している光と六条が蔑ろにしているのは葵と光の現在の日常生活なんですよね。なので、思い出に浸っている人達をバックに、葵は「ライフ ◯◯店、キャベツ◯◯円、ニンジン……」とスーパーのレシートをマイクで読み上げていく演出をプラスしました。浮かれた2人へ批評的に機能するように。最後は、後ろを向いてひとり佇む光のお尻を、キャベツとかネギが詰まった重たいエコバックで葵が「ばこん!」とやって、暗転(笑)。でも、この『葵上』の経験を通して、決してそのテキストが好きじゃなくても、共感していなくても、テキストに対して批評的であることで上演は可能になるんだと学びました。テキストが備えている視点とは違う、オルタナティブな可能性を演出によって提示できる。上演はテキストを裏切ることができる。好きなテキストを自分で選んで上演するのはもちろん楽しいですが、一方で自分の関心がなかったテキストに右往左往するのも面白いんだなって、すごく勉強になりました。
———和田さんは既存のテキストを用いた公演のみならず、日常生活などからモチーフを切り取り、役者と一緒になって公演を一から作り上げていくような手法も取られていますね。
日常生活は作品のモチーフによくしています。『したため』の次に上演した『巣』では、ひとり暮らしの部屋をモチーフにしました。当時大学院生だった私も学生アパートの一室を借りていましたが、学生は卒業を機にアパートを出ていきますよね。隣の人も知らない間に入れ替わってる。じゃあ自分の部屋の“自分の”とはどこに根拠があるんだろうって。空っぽの四角い部屋にどんな持ち物を持ち込むか、どんな巣材で巣を作るのかに“自分”の根拠があるんじゃないか、という仮説を軸にして、作品を作っていきました。稽古では、なんてマンションに住んでいるんですか? という問い掛けから始まり、出演者に自分の部屋の説明をしてもらったり、マンションになりきってもらったりもして(笑)。出演者たちの即物的な日常を色んな形で描写してもらいました。
———和田さんは他者が考えていることや気持ちに興味がおありですか?
そうですね。自分にはあまり興味ないかもしれません。他人の方が面白いこと言ったり、書いてたりするので、それに頼る。演出家って、自分ひとりだけではできない仕事の最たるものだと思います。あと、たとえば自分が確固たる演出プランを事前に用意しても、大抵現場では面白くないんです(笑)。俳優のアイディアや、それに刺激されて生まれる私からの応答など、稽古場で見えてくるものの方が面白いという感覚がすごくあります。
———2021年にKYOTO EXPERIMENTで公演された『擬娩』では妊娠・出産をモチーフに、男女の出産未経験者の役者が、演劇を通して妊娠・出産をシミュレートするという斬新な試みをされていましたね。
『擬娩』は、もともと2019年にしたための自主公演として上演した作品なんです。初演の経緯としては、自分の人生における妊娠・出産を、20代のあいだは態度を決めきれず先送りしつづけ、30代になってその先送りのツケがまわってきて、身体的なリミットはどうしてもあるし、やばいな、考えなくちゃ、どうしようか、でもわかんねぇ、むず! と扱いかねていた時にふと、作品にしたら自然と向き合えるのかもしれないって思ったんです。実人生におけるプライベートな悩みが出発点になったのは、この作品がほぼ初めてで、自分にとっても特別な作品となりました。初演は無我夢中だったんですが、上演を重ねれば更に先にいけるかもしれないという期待もあったので、初演の直後から再演のことを考えていました。そこに、初演を見てくださったKYOTO EXPERIMENTの共同ディレクターから連絡があり、舞台芸術祭の主催プログラムとして再演することになりました。
———再演では10代の出演者をキャスティングされていました。
初演では俳優やスタッフも私とほぼ同世代で、等身大のリアリティの中で作品を作り上げていきましたが、フェスティバル側から若い人を交えて上演をやってみませんかと提案がありました。年齢差があるチームでは「大人」と「子供」という構図になってしまいやすいんじゃないかという警戒心はあったのですが、妊娠・出産を経験したことがない人たちが想像力だけを頼りにリハーサルするというコンセプトの『擬娩』であれば、大人も子供も同じ「未経験者」というフラットな立場でいられるんじゃないか。そんなイメージが持てたので、ぜひやりましょうと返事をしました。公募を通じて、高校生2人、中学生1人が公演に参加してくれることになりました。作品の内容も初演を引き継ぎつつ、今回集まった新しいメンバーともたくさん話をして。ほとんど演技未経験の子もいましたが、自分たちの普段の生活を参照してもらいながら、シーンを作っていきました。たとえば、いつもは部活のアップで走り回ったりすると。でも、妊娠初期のつわりで気分が悪くなったら、部活は見学しないといけないかも、とか。そういうふうに、自分と全く異なるキャラクターやフィクションをインストールするというよりかは、出演者自身の生活をベースに考えていくような作品だったので、演技経験の少なさはほとんどネックになりませんでした。みんな、リラックスしてパフォーマンスしてくれたと思います。
———様々な分野のアーティストとも盛んにコラボレーションを行なってきた和田さんですが、今後はどのような公演を控えていますか?
2022年12月に京都芸術劇場 春秋座で、反カースト運動の指導者であったアンベードカルの演説原稿「カーストの絶滅」をもとに、インドの演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワランさんと共同演出で公演を行う予定です。2人の演出家で1つの公演の演出を手掛けるのは初めてですし、しかも日印の役者が出演するので、果たしてどうやって公演を作り上げていけばいいのか、まだイメージができないんですが(笑)。自分にとって、新しいコラボレーションのかたちになりそうです。カースト制度についても、日本に暮らしている私にはリアリティがないので、どのようにアプローチできるか挑戦というか。だからこそやり甲斐もあり、私自身、クリエーションと公演をとても楽しみにしてます。
取材・文 清水直樹
2022.04.17 オンライン通話にてインタビュー
和田ながら(わだ・ながら)
2011年2月に自身のユニット「したため」を立ち上げ、京都を拠点に演出家として活動を始める。主な作品に、作家・多和田葉子の初期作を舞台化した『文字移植』、妊娠・出産を未経験者たちが演じる『擬娩』がある。美術家や写真家、音楽家など異なる領域のアーティストとも共同作業を行う。2015年、創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5最優秀作品賞受賞。2018年、こまばアゴラ演出家コンクール観客賞を受賞。2018年より、多角的アートスペース・UrBANGUILDのブッキングスタッフ。2019年より地図にまつわるリサーチプロジェクト「わたしたちのフリーハンドなアトラス」始動。NPO法人京都舞台芸術協会理事長。セゾン文化財団2021-22年度セゾン・フェローI。
http://shitatame.blogspot.com/
清水直樹(しみず・なおき)
美術大学の写真コースを卒業し、求人広告の制作進行や大学事務に従事。現在はフリーランスライターとしてウェブ記事や脚本などを執筆。