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アネモメトリ -風の手帖-

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#119

コザ独立国 終身大統領 照屋林助
― 沖縄県沖縄市

毎年4月、沖縄県沖縄市(旧コザ市)で、沖縄の音楽・芸能・文化に功績を残した照屋林助を偲ぶ「コザ・てるりん祭」というイベントがおこなわれています。
「てるりん」とは林助の愛称です。
照屋林助は1929年4月、琉球古典音楽家照屋林山の長男として大阪で誕生し、7歳のとき、父の故郷である沖縄へ家族で移住しました。沖縄戦で米軍の捕虜となり、収容所にはいりました。
収容所時代に「沖縄のチャプリン」とも呼ばれた小那覇舞天(おなはぶーてん)に強い影響を受けます。
沖縄戦が終結すると小那覇とともに村々をまわり、「生き残った人が命の祝いをしなければ、死んだ人に申し訳がない」という「命の御祝じ(ヌチヌグスージ)」芸で、戦争に打ちひしがれた人々を元気づけました。
芸能の道に進んだ林助はパロディーや歌謡、洋楽などを盛り込んだ、可笑しくも含蓄深い漫談でテレビ・ラジオ番組に出演したり、映画へ出演するなど精力的に活動しました。
何事にも研究熱心で、父、林山の経営する三線店で「エレキ三線」「四線」「二首三線」などを考案したり、離島の民謡や童謡の採集なども行い、沖縄文化の再発見にも力を注ぎました。
1990年、常に新しいものを創造していく精神にあふれた文化国家を作ろうと、「コザ独立国」の建国を宣言し、自ら「終身大統領」に就任しました。
彼は沖縄の文化は、南方の文化、ヤマトの文化、中国の文化、アメリカの文化などのミクスチャであるという「チャンプラリズム」(チャンプラ、チャンプルー、ごた混ぜ)を提唱し、新たな沖縄芸能・文化の方向性を模索しました。
チャンプラリズムはモンゴル800、オレンジレンジなど、その後の沖縄ポップカルチャーに強い影響をあたえました。
2005年3月、死去。同年5月、コザ独立国の関係者によって「国葬」が執り行われました(1)。
2009年、彼に影響を受けたアーティストたちによって「コザ・てるりん祭」がスタートし、現在まで続いています。
2019年のコザ・てるりん祭には、30名以上のアーティストが集結し、てるりんの想い出を語り、ステージをつとめました(2)。
照屋林助の芸の一端はNHKアーカイブスの「NHK ××録 あの人に会いたい」で見ることが出来ます(3)。

(儀間真勝)

(1)
惜別 沖縄の歌謡漫談家 照屋林助さん|朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/area/okinawa/articles/MTW20999999480111295.html

(2)
てるりん祭実行委員会
https://twitter.com/terurinsai

(3)
照屋林助|NHK人物録|NHKアーカイブス
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010240_00000

「第11回コザ・てるりん祭」ポスター

「第11回 コザ・てるりん祭」ポスター