“あるく”
小さな鞄にノートや手ぬぐいを詰め込み、首にカメラをぶら下げて日本全国を歩き回った民俗学者、宮本常一。宮本は明治40(1907)年、瀬戸内海に浮かぶ周防大島に生まれました。海に漕ぎ出せば遠くまで行ける周防大島の人にとって、海は、島と外の世界を隔てるものではなく、つなぐものだったようです。宮本は、父も含め島の男たちはふらりと旅に出ることがあったと書いていますが、宮本にもこの遺伝子が受け継がれたのでしょう。旅に費やした日々は4000日におよび、歩いた距離は地球4周分にもなるといわれています。
“みる”
宮本が15歳で大阪に出るとき、父は10か条のことばをおくっています。その中に、「汽車に乗ったら窓の外を見よ」「新しく訪ねたところでは高いところに上がって見よ」「人の見残したものを見よ」というものがあります。よく見ることでおのずからその土地のことが分かるし、大事なものは往々にして人が見残したところにあるというのです。宮本は生涯この教えを守り、訪れた地を細かく観察し記録に残しています。
“きく”
宮本が旅の途上で泊めてもらった家は1000軒をこえるといいます。当然、会った人の数はその何倍にもなるでしょう。そしてその人たちから多くのことを聞き取っています。有名な「土佐源氏」などを収録した『忘れられた日本人』は、村の古老などに聞いた話を中心に編まれたものです。宮本の聞く力によって引き出された、それぞれのライフヒストリーは、庶民の生活や文化がどのように生まれ、継承され、変化したかを教えてくれます。
“つなぐ”
宮本は自ら「百姓」と称していましたが、実際、農繁期には周防大島に戻って稲作やみかんづくりに従事していました。家の後ろには海が広がっていましたので、漁にも通じていました。こうした素地をもつ宮本は、訪れた地で農業や漁業の有用な手法を聞き取ると、他の地域にそれを伝えました。聞き取りをするだけではなく、地域を繋ぎ、その生活をより良くすることにも力を注いだのです。
宮本は刊行されていないものを含めれば100巻を超えるだろうといわれる著作や10万点にもおよぶ写真を残しました。各地の青年たちとともにその土地の民具の収集・保存もすすめました。猿まわしの復活や鼓童の前身である鬼太鼓座の設立も支援しています。離島の現状を改善したいとの思いから離島振興法の制定にも力を尽くしました。このように宮本が次代に繋いだものは膨大で多様です。
宮本は昭和56(1981)年1月、73歳で亡くなりましたが、前年の3月には周防大島に郷土大学を立ち上げ講義もしていました。11月にはダム建設で水没する地域の調査に背負ってもらい参加。12月の入院時には病室に大量の原稿用紙を持ち込んだといいます。
宮本は「あるくみるきく」という雑誌を創刊しましたが、これに「つなぐ」を加えた、「歩く、見る、聞く、繋ぐ」を愚直に続けた一生だったといえるかも知れません。
宮本のことを知りたい方におすすめなのが、ふるさと周防大島にある宮本常一記念館です。遺族から寄贈された10万点の写真、調査ノートや原稿、蔵書、旅支度一式、そして宮本が指導して青年団などが集めた地元の民具などを所蔵しており、彼の仕事の全容を垣間見ることができる宮本ファン垂涎の聖地です。
《周防大島情報》
・宮本常一記念館から車で3分くらいのところにある、「道の駅サザンセトとうわ」の沖に真宮島という小島があります。この島はモン・サン=ミシェルのように干潮時には歩いて渡れます。恋愛のパワースポットともいわれているようです。ちなみに生家のすぐ近くにあるこの島を幼少期の宮本がスケッチしています。
・周防大島町は2022年度、複数の高額納税者が転入したことで、個人住民税の伸び率が全国トップになりました。転入の理由は分かりませんが、この素晴らしい風景の中に住んでみたいという人は少なくないでしょう。
参考資料
宮本常一『宮本常一集第一集第10巻 忘れられた日本人』未來社、1987年。
宮本常一『人間の記録129 宮本常一 民俗学の旅』日本図書センター、2000年。
佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』文藝春秋、1997年。
リーフレット「宮本常一記念館」宮本常一記念館。
YouTube「宮本常一チャンネル」、https://www.youtube.com/watch?v=dVmAEB_wpLY ほか(2024年1月15日閲覧)。
(長和由美子)