アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#36
2015.12

生きやすい世界をつくるためのアート

前編 関係づけて、「保存と活用」するということ
4)松井さんのこれまで3
「イタリア留学」と「グランプリ」

大学卒業後もまた、松井さんに選択の機会がやってきた。陶芸の産地で自分流の民芸をやるか、あるいは彫刻的陶芸をやるために海外に行くか、であった。

——最初は信楽に行くつもりやったんです。彫刻的陶芸を民芸化していくという、新しい民芸運動するために。でも反対もあったし、外国も行きたいと思っていたから、専攻科に進んで英語を勉強したりして、留学の準備に入ったの。そしたら(近藤)先生が「イタリアやったらタダで行けるぞ」って。1980年代前半、当時は海外といったらロンドン、パリで、イタリアってイモくさいイメージだったんです。でもタダというので、ちょっと心が揺らいで(笑)。イタリアは彫刻の国だしということで、国費留学生としてイタリアに行ったんです。

行き先は中央北部、ラベンナ州のファエンツァ。陶器で有名なこぢんまりとしたまちで、アドリア海に近く、アペニン山脈があり、山を越えればフィレンツェ、北に上がればボローニャと“めちゃくちゃいいところ”だった。滞在中は、エトルリアで紀元前に焼かれた陶器ブッケロの研究をテーマとして、国立ファエンツァ高等陶芸研究所に所属していた。

——最初は学校に行けなかった。不良外人です。朝8時に始まるのに門をすぐ閉めちゃうから、早すぎて行けなかったんです。門に怖いおばちゃんがおって、入れてくれへん。仕方ないから、自分の部屋をアトリエにして、庭に窯をつくって、家で仕事ができるようにしました。
学校は優秀な先生が教えてくれてたんだけど、1年目に立体がつくれなくなっちゃったんですよね。つくってもつくっても、平面になっちゃう。あのときは不思議やったな。それでも、イタリアで開催されたALCOA(アルコア)コンクールというのがあって、それに応募したんです。コンペに出したあとはスイスで初めての個展を開いてもらって、そちらに行ってたんですが、カルロ・ザウリという世界的に有名な陶芸家から電話がかかってきて。なんで知ったかは覚えてないんやけど、彼のところにはよく行ってた。そしたら「松井が賞をとったから、すぐに戻れと伝えてくれ」と。2等賞やったかな。それで「ようやった」という学校の先生もいて、だんだん学校が好きになっていった。それからは真面目に通うようになりましたよ。日本から来た友達に「お前はイタリア人か」と言われるほど、イタリアに魂売ってたね(笑)。

そこから、松井さんの人生は“ローリングストーンのように”転がってゆく。

——その翌年、ファエンツァの国際コンペがあって。賞取るために行ってたところもあったから、絶対取ろうと思ってて、行ったその年から2年後に向けて作品をつくっていましたよ。でも、立体がつくれなくなってたから無理かな、と。平面の作品をつくったクズ土が山ほどあちこちに積んであったんですが、それを再生するために切ってたら、いろんな土が混ざってて面白い。で、ある日これやと思って、クズ土まとめたやつを切って、配置し直してみたら庭みたいでまた面白い。先生に頼んで、彼の窯でブッケロの技法で焼いてもらって出品したら、それがグランプリになったんですよ。でも、その先生の窯を僕は爆発させてしもて。ブッケロをやるとき、最後にナフタリンを入れたせいで煤が出て、爆発しちゃった。
グランプリを知らせに来たのは、それもザウリで。今度は自転車に乗ってやってきた。「お前グランプリとったぞ、すごいぞ!」って窓の下から。なんのことか全然わからなかった。これは決定的やったね。このころは「棚からぼた餅」を座右の銘にしてたな。そんなこんなで、イタリアはええな、ということで、日本に帰る気は全然なかった。八木一夫、鈴木治、カルロ・ザウリの三題噺みたいに先生に恵まれ、国際コンペでグランプリ、環境も申し分なく、もうこれで十分、という気分になってた。28歳で怖いもんなしの全能感に溢れて天狗になって、でも30歳でばかばかしくなった。

20代の終わりに、松井さんは人生の頂点の感覚を味わっていた。後は彫刻的陶芸家として、より良い作品を“つくっていくだけ”だ。しかし、転がる石、と自身がいうように、仕事も生活もともに、こののちも目まぐるしく展開することになる。

第40回ファエンツァ国際陶芸コンクールグランプリ作品 「Isola」1984年

第40回ファエンツァ国際陶芸コンクールグランプリ作品 「Isola」1984年