4)ミラノと波佐見で、伝統の未来を見いだす
2001年から 02年にかけて、エンツォ・マーリが主宰した「KAZAN(カザン)プロジェクト」への参加は、城谷さんの進むべき道がはっきりと見えるものだった。「KAZANプロジェクト」とは、長崎県の波佐見とミラノで、マーリと染付職人で行ったワークショップである。
マーリは職人ひとりひとりに図案のマエストロになってほしいと考えて、ものの本質とクオリティを突きつめていくための方法を示した。まず、筆づかいとその意味に文化的な背景にあることを教える。さらには、花鳥風月を描くにも伝統的な絵柄のヴァリエーションを見るだけでなく、東西の古典芸術を参照したり、じっさいに植物や動物を観察するなど、広い視野からリサーチを重ねていったのだった。
———マーリさんいわく、職人さんというのは同じ場所で、同じ作業を20年繰り返して技術を身につけ、その後最低10年は世界を見て歩き、美学を磨いて一人前になった、と。でも今は社会のスピードが違うから、一人前になるまで30年も誰も待ってくれない。
そこでマーリさんが考えたのは、美学を持った自分たちデザイナーが職人さんと一緒に仕事することで、昔の職人さんのクオリティを取り戻せるんじゃないか、ということなんです。でも、デザイナーはそんなに要らない。それよりも職人の数を増やさないと、社会は良くならない、と。そのためにはデザインの教育を受けたひとが、職人さんにデザインの方法とか、知性とか教養を教える側にまわるべきじゃないか、ということなんですね。
デザイナーの存在で、職人の仕事が息づくようになる。そのために自分も働きたい。日本の伝統工芸に関わりたい。やりたいことが見えてきたこともあって、城谷さんは帰国を決める。
最後にもうひとり、イタリア時代に城谷さんが多大な影響を受けた人物にふれておきたい。評論家の多木浩二である。戦後の批評家を代表する存在で、美術から建築まで、自身が関心を寄せる対象に関して、独創的な評論活動を行ってきた。ちなみに、ともにアート的な活動を続けたルームメイト・多木陽介さんの父でもある。
———多木さんに会う機会は多かったですね。本当にあたたかい方で、時間のないなか「城谷くんがこういうところに向かおうとしてるんだったら、フランスの本でこういう本があるよ」と、昔の道具を集めた本の話をしてくれて時間が大幅に過ぎてしまったり、いつもそんな感じでした。
僕がプロデュースして「アウラコレクション」を手がけたとき、多木先生が文章を書いてくださったんです。「これはあなたの功績だし、あなたのことを書いた」とおっしゃったんですけど、こういうことを学べるように、ずっと気を利かせてくださったんだなと思いました。
アウラコレクションとは、株式会社アウラの追求する新素材を日常的なプロダクト商品として展開するもので、城谷さんは2002年、六本木・AXISギャラリーで開催された「デザインの仕事展」のアートディレクターも務めた。マーリのデザインしたプロダクトをはじめ、城谷さんや他のデザイナーの新作と復刻が並んだ。
その展覧会に多木さんが寄せた文章を一部引用したい。
「物=道具の歴史は人類とともに古いが、物をつくることも使うことも、かつては無数の無名の人びとに支えられてきた。そこには手の確かさが働き、人間の動作と道具を結合する世界が作られてきた。そのときには集団が保存する確かな技術があった。「物づくりの技術」という場合は、そのように変わることなく、保存されてきたこの確かさの世界を指すことが多い。それを「伝統」と思いこみがちだが、ほんらい「伝統」とはそんな狭い意味ではない。人類が、現在において、文化を営んで行く営みそのものが「伝統」なのであって、あたらしい物質的、意味論的な環境が生ずると、それをも自らのうちに統合して未知なる世界を構成していく能力を伝統というのである。‥‥‥物をデザインするとは、結局、このような危険な状態に陥った人間の文化の価値をもう一度、問い直す闘いのなかにある。‥‥‥なんでも可能にする技術の世界にあって、本質的なかたちを見いだすための技術を発見し、開発することも容易ではない。そもそもある道具の本質的な「かたち」とはなにかを見いだすことはさらに容易ではない。このコレクションが試みようとしたのは素材と技術を提供できる人間が、こうした伝統の未来を見いだすという困難さの前に立っているデザイナーがどんな答えを見いだすか、という問いを投げかけることからはじまったともいえよう。」(原文ママ)
「伝統の未来を見いだす」ために、城谷さんは行動を始めたのである。