9)終わりに しなやかに変わり続ける
まちがひとをつくるのか、ひとがまちをつくるのか。この取材を続けるうち、そんなことを思うようになった。
アートディレクターの関宙明さんのエピソードが印象に残っている。
———うちの母方の実家は八丁堀で下駄屋をしていて、子どものころは毎週のように電車に乗って通っていったものです。叔父が、切り株みたいな木の台を持ち出して、小槌で下駄の紐をなめしている。そのときのドン、ドン、という音が、記憶に残っています。
カキモリさんがデモンストレーションで、革に孔をあけたことがある。ハトメと小槌を使うのですが、やっぱりドン、ドンと音がする。それでああ、やっぱりこれがお店の音だったんだと思ったんですね。店っていうのは、ものを右から左へ移す場所ではない。誰がつくっているのか見られるとか、ひとが生きていることを感じられる場所ではないかと思います。
「店」を「まち」と言い換えてもいいのではないか。蔵前は、音と匂いにあふれた場所だ。ドン、ドン、ガッシュガッシュ、ガタンゴトン。モーターの音や紙を送る音が響くなか、ふいに味噌汁や焼き魚の匂いがしてくる。見れば町工場の前には丹精込めた植木鉢が、じょうろの水を得て葉色を深めている。ひとの息づかいが感じられる場所で、町もまた生き続ける。それは大沼ショージさんの言った「変わり続ける」ことにも通じるだろう。ひと、もの、暮らし……すべてが常に変化しているからこそ、まちは活気にあふれている。
その変化を嘆くのではなく、移ろっていく時代に合わせて、そのとき求められるもののために自分の技術を注ぎ込む。そのしなやかさが職人たちの本分であり、このまちの気質でもある。
「月イチ蔵前」を続けるセキユリヲさんも、鳥越祭のたびに大勢の知人を呼ぶ宇南山加子さんも、自分の利益のために行動しているわけではなく、かといってまちのためという大義名分もない。強いて言えばそれは「遊び」であり、自分が好きだから、面白いから、自発的におこなっているに過ぎない。しかし含羞(がんしゅう)のあるこうした好意は、周囲に伝わり、やがてはまち全体を変えていく。
インタビュー中、セキさんが話してくれたことも忘れられない。
———わたしね、このまちには緑が足りないと思っているんです。戦争のあとに整備してしまったんでしょうね。幸いにも、このまちにはポケット(隙間)が多い。いつかこのまちを巡りながら、ちょっとした緑を置いて、無機質な場所を変えていく活動を普及させたいんです。
いつか蔵前が緑に包まれる日が来るかもしれない。まちはひとがつくっていくものだから。そしてそのまちに暮らすことによってひともまた、しなやかに変化し続けるのだ。