1)手のひらでものをつくる
クリエイションの身土不二(しんどふじ)
革小物デザイナー 村上雄一郎さん
たとえば革財布ひとつができるまでに、どれほどの手数が必要なのだろうか。デザインを決めたら、まずは材料となる皮革、ファスナー、金具、芯材を用意する。皮革を必要な厚みに漉き、染めて、型で抜き、ロゴを箔押しする。芯材と皮革を糊づけし、縫製して、検品して……。
ハンドメイドの場合、そのひとつひとつが手作業になる。とはいえ、それを一人で請け負うには膨大な時間と労力が必要となる。そこで町工場の職人たちの出番となる。抜き屋、漉き屋(すきや)、縫い子に箔押し、金具屋。すべてのプロセスを一括して請け負う業者は「メーカー」と呼ばれる。
蔵前界隈にはこうした職人やメーカーが数多く暮らしている。
オリジナルの革小物をプロデュースする「m+(エムピウ)」の村上雄一郎さんは、前編で紹介した台東デザイナーズビレッジの一期生。卒業後の2006年、店舗とアトリエを構えた。蔵前を拠点としたのは、この地域が製作に便利だったからだ。
埼玉の自宅近くで倉庫を借りていたころは、買い出しに難儀したという。材料集めに丸一日費やし、しかも買い忘れがないようにと余分に購入してしまう。しかし、蔵前にアトリエを構えてからはそんなこともなくなった。足りなくなったら気軽に買い足しに行けばいい。まちそのものが、自分の倉庫のような存在なのだ。
———業者さんのほうから打ち合わせに来てくれるようになったのも大きな変化ですね。それに、何度も顔を合わせるようになったおかげで、革屋さんのほうも僕の趣向をわかってくれて、「こういうの、村上さん好きでしょ」って、ちょくちょく持ってきてくれるようになったんですよ。
職人やメーカーと仕事するときも、気になることがあればメールするより自転車でひとっ走りしたほうが早い。ものを目の前に置いて会話して、オリジナルをつくり上げていく。顔を合わせるからこそ生まれる阿吽(あうん)の呼吸は、ものづくりの現場で力を発揮する。
———僕はなるべく、「ものづくりは手のひらで」、つまりハンドリングできる距離感でつくりたい。かといって、ひとはあまり雇いたくない。たくさんのひとを雇っていると、そのひとたちを食べさせるために経営していくことになる。そうはしたくないから、信頼できるひとに外注したい。自分で手を動かしていく延長上で、職人の力を借りながらものをつくっていきたいんです。
ここで言う「職人」が、日用品製作の職人だということに注意を払いたい。つまり、もとは作り手自ら作業していたものを分業化して引き受けている、いたって普遍的な手の延長なのである。伝統工芸と違い、特殊な技術が少ない。それゆえ、安価な海外下請けに仕事をとられることも多い。
———「最近は中国の職人さんのほうが、ロットが少なくても受けてくれるし、変わったかたちのものでも工夫してくれる」と聞いたこともあります。型紙を渡さなくても、いろいろ工夫してつくっちゃうんだって。日本の職人さんは、きれいにつくるのは得意だけど、構造が見えない新しいものをつくるとなると、チャレンジしたがらないこともあるから。
それでも村上さんは、地元の職人とつくりたい。理由は「手のひらで仕事をしたいから」。
———m+は、ユーザーにとって「私が見つけたお気に入り」「知る人ぞ知るブランド」でありたいんです。となると、海外で知らないひとに大量につくってもらうより、日本で顔の見える間柄のなかでつくっていくことが大切だと思う。
ご近所だからこそ、細かいところまですりあわせが納得いくまでできる。世間話も自然と多くなるから、仕事以外の顔も見えてきて、お互いの趣向や性格もわかってくる。そうなれば仕事だって、自然と息が合ってくるものだ。
日本には「身土不二」という考え方がある。その土地でとれるものを食べることが人の健康を保ち、命を支えるというのだ。「m+」のものづくりは、いわばクリエイションの身土不二。作り手と職人が顔をつきあわせながら細部まで詰めていくことで、完成品の精度があがり、魅力が増す。メールのやりとりからは生まれない、自転車で回れる距離が育むものづくりがある。
村上さんが今心配しているのは、職人の高齢化だ。村上さんが仕事を頼んでいるひとも70代。しかも、仕事のできるひとが年々少なくなっているうえ、跡継ぎは少ないから、できる職人のところに仕事が集中してしまう。これから数年のうちに、職人不足は加速すると村上さんは見ている。それでも小さな希望がある。
———僕らの求めているのは、特別な腕やスピードではなく、ていねいに仕事してくれることなんです。若い世代を見ていても、デザインをしたり店で接客するのは苦手で、ただただつくることが好き、っていうひともいる。そういうひとたちが、町工場やメーカーの番頭さんみたいなひとについて仕事を覚えていったら、道が開けていくんじゃないかなと思っています。課題もたくさんあるけれど。
それはいたって普遍的な手の延長にあるからこそ生まれた希望なのだ。