4)地域を盛り立てる「モノマチ」の始まり
デザビレ設立後の2010年、毎年開催しているデザビレの施設公開と近隣の卒業生の店舗を雑誌で取りあげてもらった。このとき、鈴木さんが御徒町と蔵前の中間にあったデザビレ周辺を「徒蔵(かちくら)」と呼んだところ、やがてこのエリア名が一般に認知されていく。
翌2011年5月、鈴木村長は「モノマチ」を開催した。台東モノづくりのマチづくり実行委員会、を縮めて、モノマチ。クリエイターや職人、メーカー、問屋など、ものづくりを生業とする地元の人々が仕事場を一般公開するイベントである。
デザビレを卒業したクリエイターは現時点で55組。そのうち28組が台東区内にアトリエを構えている。誰かの日常に寄り添う商品をつくりたいと願う彼らにとって、安定した素材を入手できる材料店とたしかな技術をもつ職人は、ものづくりの要だ。だからこそ彼らはこのまちに根を張る。
———けれども台東区って、クリエイターが発表する場所がないんですよ。クリエイター予備軍も、台東区に材料を買いにくるけれど、ものを買ったり見たりする場所がないので、区外へ出てしまう。かといってデザビレの施設は一般公開していないから、ふだん見ることができない。それで、デザビレ入居者のつくったものを見てもらったり、卒業生の店を回ってもらったりする場をつくりたいと思ったのが、「モノマチ」の始まりなんですね。
第1回「モノマチ」に参加したのは、近所の企業やデザビレ卒業生を中心とした16店舗と、クリエイター87組。台東デザイナーズビレッジと、そこからほど近い佐竹商店街の軒を借りて、クリエイターたちの手づくり市を開いた。作り手の製作しているものと、職人達のものづくりの現場を公開する。それが、個々の仕事の認知度を高めるだけでなく、地域の活性化にもつながると考えたのだ。
開催準備を始めた3月、東日本大震災がおこる。各地でイベントの自粛が相次ぎ、モノマチも中止すべきだと諭すメンバーもいた。しかし鈴木さんは予定通りの開催を主張した。
———台東区には東北に続く路線の入り口、上野駅がある。その台東区が元気を出さなくてどうするの、僕らはここでがんばろうよ、と。それとこの地域は、上野、銀座、浅草という繁華街に囲まれていながら、いまひとつ知られていない。それでも「徒蔵」というエリア名が情報誌で紹介されて、ようやくものづくりのまちとして知名度があがりつつある。しかも翌年はスカイツリーが開業して、雑誌やテレビも東(ひがし)東京特集を組むはずだ。まちの機運が高まっているのは今なんだ、ここを逃してはいけないと説得したんです。
こうしてモノマチ開催に向けて参加者の意志が固まった。資金ゼロから始めたので、参加者たちから会費を集め、協賛金をもらいにまわり、チラシやポスターを制作した。ポスティングやポスター貼り、クリエイターたちもDM発送なども行ってアピールに努めた。とはいえ、本当にひとが来るのだろうかと、参加者たちも半信半疑で準備をすすめていたという。それでも、告知活動の積み重ねが効いたのだろう、当日は驚くほど大勢のひとがやってきた。作り手が直接ものを売っているとあって、お客さんたちもゆっくり話をしていく。
「『数十年ぶりにこんなにお客さんが集まった』って、商店街のひとも驚いていました」と、鈴木さんは振り返る。
ふだんは人通りの少ない商店街に、たくさんのひとが集まり、会話を楽しんだり、買い物をしたりする光景に、往年の佐竹商店街を知るひとたちはきっと、胸を熱くしたに違いない。なぜならこの商店街は、かつて東京を代表する賑やかな場所だったからだ。
新御徒町駅近くの佐竹商店街は、日本で2番目に古い歴史をもつ商店街組合である。1968年に発刊された商店名鑑では、こう紹介されている。
(佐竹商店街は)明治の初め、佐竹藩下屋敷跡に、遊技所、見世物小屋、飲食店などの屋台が立ちならび盛り場的な盛況を示したことから始まる。その下町情緒ゆたかな商店街として発展し、都内にその名を馳せた……
さらに付近には映画館や芝居小屋があり、カフェーや喫茶店も盛況だったという。関東大震災のときは再起があやぶまれるほどの打撃を受けたが、復興。しかし、第二次世界大戦中、空襲で約半数が消失する。焼け野原となったこの場所に再びひとが戻ってくると、小さな店を建て始めた。まず扱ったのは衣料品、それから毎日の生鮮食品。震災や戦争で多くを失った人々が、それでも生きていくために必要とした「生活必需品」だ。
商店街が賑わうことは、日常生活に希望を取り戻すことでもあった。
戦後10年がたつと、人々はさらに多くのものを必要とするようになった。それだけ豊かになったのだ。
1956年に印刷された「台東区主要生産品案内」の掲載広告を見ると、当時の生活風景が浮かんでくる。
制服のボタン製造、ゴム引き雨具製造、ミシン製造、鏡台用の鏡を製作する工場、ショーウィンドウ専門の製造工場。製紙業ひとつとっても、パンやヌガーを包む蝋引き紙をつくっている工場もあれば、ノートブック専門の工場も、暦をつくる店もある。学校給食パンを焼く製パン所があり、そこで使うパン焼き機の製造工場もある。
序文には区長のこんなことばが記されている。
あのおびただしい戦禍を蒙ったのも、もうひと昔も前のこととなった。見事に復興した街、建築物など、今思えば全く夢のような感がするのである。人間の生きる力は強い。台東区はどこにも負けないように復興した。工業も商業も、文化も……
徒蔵エリアに今も日用品の製造業がかたまっているのは、こうした時代背景がある。ひとりで仕事を独占するのではなく、家族が食べていかれる分だけを自分の手で稼ぎ、ご近所と助け合いながら暮らしていく。それが穏やかな暮らしを明日につなげるたしかな方法だった。
職人達は頼まれた仕事を全うすることに誇りを持っていたが、伝統工芸とは異なり、制作物は依頼された内容によってその都度異なった。どんな仕事にも応えられる柔軟性と確かな技術が、彼らの生活を支えていた。
最近、新しくこのまちにやってきたクリエイターたちが生み出しているのも、生活に必要な雑貨や服飾品だ。彼らの発想を実現化する確かな技術を、このまちはすでに持っていたのだった。