アートとともにひと、もの、風土の新しいかたちをさぐる

アネモメトリ -風の手帖-

特集 地域や風土のすがたを見直す、芸術の最前線

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#18
2014.06

場の音、音の場

前編 梅田哲也×細馬宏通 対談 展覧会「O才」をめぐって
7)主張しない作品、誘導しない手がかり

細馬 梅田くんは、俺は俺は、と前に出るようなところがないよね。作品も主張しないというか。作品をつくるときは、基本的にその場で起こっていることは受け入れようって決めてるのかしら?

梅田 僕には外の要素を「受け入れる」という感覚はそもそもなくて、後から入っていったのは自分だから、そこにもともとあるものは大前提で、何があってもとりあえずはよくて。それは今回に限ったことではなくて。美術館であっても、ライブハウスであっても、パフォーマンスをしている途中であっても、とりあえずは何が起きてもいいんです。もともとあった要素が原因なら、中断されてしまっても一向に構わない。後から、外部から持ち込まれた要素、なかでもとりわけ他のひとの“作品”についてはなかなか受け入れづらいこともありますけど。これは例えばグループ展なんかにおける話で、今回はそういうことはまずないですよね。
「O才」では、非常に微妙な、曖昧なことをしようとしていたんですよね。グラデーションとしては、ものすごく薄いもの。なだらかな傾斜でつくろうとしていたから、他の”作品”的な要素が入ってくると、これに引っ張られないように、どうしても傾斜を急にしなくてはいけないんですよ。“作品”にはどうしても主張があるので。
でも今回の展覧会でいうと「アキビンオオケストラ」(*1)なんて、路上で非日常的な行為をしているわけだから、一見パフォーマティブなのかな、とも思うんだけど、彼らの自意識のなさとか、いいんですよね。自意識のなさという言い方が正しいかわかんないですけれど、少なくとも、ノイズにならないんですよ。ビンを吹いて歩くというのは特殊な行為なのに、主張するものが何も感じられない。

細馬 うん。アキビンの面子は、見事に気配を消してるよね。あえてキャラを立ててないというか、気がつくといるくらいのうっすらした感じ。まさに空きビンのごとく、無用でニュートラル。そこにただ置いてあって、でも誰かが音を鳴らすと鳴る、みたいな。

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空き地にて、何をしているのかよくわからない動きの数々

梅田 さっき話したような、本筋がポイントではないような物語の例でいうと、結末は実際のところ、どうでもいいわけで。オチを求めて来たひとにわかった気になられると、いちばん見せたいところをやり過ごされるというか。強いものがぽん、と入ってしまうと、そっちに引っ張られるから、できるだけ“求心力のない面白さ”のようなものでつくっていかないと、と思うんです。

細馬 求心力のない面白さって、成立させるのが、実にむずかしい。

梅田 求心力はあるんですけれどね、共感しづらいんですよ。例えば、ローリング・ストーンズとかを観に行って、あぁ、すごいよかったと帰ってくる。で、何がよかったかと考えると、それはある程度、分析できますよね。思い入れのあった曲が演奏されたとか、音が大きくて迫力があったとか、本物のミック・ジャガーが見れたとか。じゃあ、なんで音が大きかったのかとか、本物が見れたことの何がよかったんだろうとか、いろんなことをさらに分析して、どんどん微分しいくと、面白さの成分としては、子どもが風船を担いで歩いてることと同じなんじゃないか、というような極論に達するときがあって。現段階では、共有できる体験、共通した知識が存在しないけど、そういった境界にこそ、得体の知れない求心力があって、ただ、そこにどういうふうに耳を傾けさせるか、視線を向けるかっていうことでしかなくて。つきつめれば、どんなことでも“面白さ”として捉え直すことができるんじゃないかな、と思えて。

細馬 ローリング・ストーンズだったら、宣伝があって、行く気満々でチケット買っちゃったりする。で、いざライブ会場に行くと、観客は自由気ままにあちこちに注意を払ってるわけではない。観客席は、空っぽのステージを向いていて、もうその空っぽのところに注意を向けるしかないんだよね。もうすぐ、そこにストーンズがやってくるんだって。ステージにはものすごく大量のPAとか機材があるから、実はもうそこに目を向けるしかない。通常のイベントでは、そういう環境の配置によって、僕らの注意の行き先が当たり前のように誘導されているわけだけれど……。
だけど、まちなかの空き家の前に、ぽつんと風船が置いてあって、空き家の2階の窓が開いているとするじゃない。その配置は明らかに不自然なんだけど、一方で、その空き家の窓から風船が吐き出される、とその時点で直感できるひとはほとんどいないと思うし、両者を結びつけて「窓と風船、窓と風船……」なんて注意を払ったり推理を始めるひとってのはほとんどいないと思うのね。梅田くんの「展示」の環境には、そういう、手がかりのいくつかが意識にひっかかってくるのに、一方で手がかりどうしの関係が意識からこぼれ落ちるようなところがあちこちにある。で、あとで何か「事件」が起こったときに、「あ、あのときのあれとあれが!」って結びつくのね。伏線、といってもいいのかもしれないけれど、感覚の端にちょっとだけひっかかっていて、あとからそこから引っぱり出して思い出すようなフックというか。
そういえば、さっき話した“地下の奥にあるどんづまり”ね。その入り口から、ひもみたいなのがにょろっと出てた。いかにも道ばたに落ちてそうな、使い古されたようなひも。でも、「あれ? ただ落ちてるんじゃないぞ、あの入り口から出てるんだ」って思える。「O才」には、そういう見えるひも、見えないひもがいっぱいあったなあ。

まちのようすと地下道。“ひも”が出ている

すべての動画をまとめたもの

*1アキビンオオケストラ 江崎將史が主宰するアキビン吹奏楽団。2004年11月結成。100人による吹奏、素数の現れる間隔を時間に置き換えて演奏するなど、さまざまな実験を続ける。

Breaker Project
http://breakerproject.net

構成・文:村松美賀子
編集者、ライター。京都造形芸術大学教員。最新刊に『標本の本-京都大学総合博物館の収蔵室から』(青幻舎)や限定部数のアートブック『book ladder』。主な著書に『京都でみつける骨董小もの』(河出書房新社)『京都の市で遊ぶ』『いつもふたりで』(ともに平凡社)など、共著書に『住み直す』(文藝春秋)『京都を包む紙』(アノニマ・スタジオ)など。

動画、静止画:渡邊寿岳
フリーランスの動画カメラマン。学生時代に何度か梅田のライブを撮影したことがきっかけで親交を深め、数々の作品に同行するようになる。監督作に「かつて明日が」「時間のそこ」など。