6)アウトサイダーでもアートでもなく
しょうぶ学園でつくられているものは「アウトサイダー・アート」なのだろうか。
アウトサイダー・アートとは「正規の美術教育を受けていない人が制作する美術作品」のことだが、日本では障がい者福祉と結びつけて考えられることが多いという(服部正「日本の福祉施設と芸術運動の現在」『芸術と福祉』所収)。その意味では、しょうぶ学園の作品の一部はアウトサイダー・アートといいうるが、そのような枠組みに収まりきらない部分も多い。たとえば、スタッフが障がい者の作品に介入したり、協働作業をおこなったりすることは従来の「美術」や「作家」の概念とは相いれないのではないか。
健常者と対比して障がい者を「外部」と見なしたり、彼らの制作するものを特別な「美術」と考えるのは、しょうぶ学園からもっとも遠い発想だろう。これまでのしょうぶスタイルの発展のなかでアート作品が生みだされてきたが、それは利用者を支援した結果であって、アートありきの発想からではない。
染色作家で京都造形芸術大学美術工芸学科教授の八幡はるみさんは梅田さんとともに昨年しょうぶ学園を訪れている。八幡さんもしょうぶ学園のものづくりをアートというのは違和感があるという。彼女のいうアートとはいわゆるファイン・アート、美術の世界のことである。
———ヌイ・プロジェクトはアートじゃないと思う。アートというのは自我、もくろみがあってこそ生みだされる。ヌイは<もの>としてすさまじい。美しいかどうかを言っても意味がないものでしょう。
八幡さんも染織教育にかかわっているが、工房を見学して大いに考えさせられたという。「将来退職したら、しょうぶで暮らしたい」とまで思ったのだそうだ。
———わたしたち美大の教育は目的的でありすぎているのかも、と思いました。結果を求めるというか、成果主義になってしまっている。しょうぶ学園では、無目的に手を動かす時間があって、つくり手はそこから心の充足や気持ちの安定を得ているみたいですよね。それはアートとは対照的な世界だけれど、逆に過程しかないからこそ気持ちいいともいえる。
2000年代に現代アートの世界で刺繍ブームがあったんです。刺繍を表現の手段にする若い作家たちに脚光が当たった。刺繍というのは手のプロセスが全部見える表現なんです。現代アートがコンセプトに偏重したことへの揺り戻しだったのかもしれない。
言われてみると、ヌイ・プロジェクトは制作者の手の軌跡がすべて残され、可視化されている作品が多い。しかも、そこに現れているのはつくり手の意図ではなく、ひたすら手を動かした時間の厚みである。それは東北地方で伝統的に作られてきた古着=BOROのように、身体感覚のなかから長い時間をかけて分泌されてきた生の痕跡に近いものかもしれない。ヌイ・プロジェクトの迫力はそういうところに由来するものだろう。
しょうぶスタイルのクリエイティブが目指しているのは、アウトサイダーでもアートでもなく、利用者にいかに幸福になってもらうかであった。これからもしょうぶ学園はジャンルの境界など軽やかに乗り越えて、その目的へと向かっていくだろう。