5)「織屋建て」と西陣
ここで西陣の歴史について、少し触れておこう。西陣織工業組合に話を伺った。
西陣とは、行政区域ではなく、「西陣織に携わる業者が集まった地域」の呼称である。だいたい、北は北大路通、南は丸太町通、東は烏丸通、西は西大路通に囲まれたあたりの、長方形のエリアを指す。何十もの工程に分かれた分業制のもとに成り立つ、「この地域がひとつの織物工場のような町」だ。
京都に織物の技術が伝わったのは古墳時代。5、6世紀ごろ、渡来人である秦(はた)氏一族が太秦付近に住みつき、養蚕と絹織物の技術を伝えた。794年、平安京に都が遷されると、宮廷の織物を司る役所「織部司(おりべのつかさ)」が設けられ、現在の西陣の真んなかあたり(黒門通上長者町付近)に集められた職人たちが、宮廷用の高級織物を織った。平安中期になり、律令政治が弱まってくると、官営の織物工房も衰退。織り手たちは政府のもとを離れ、自分たちで織物業を営むようになっていく。
その後、応仁の乱が勃発。戦火をまぬがれるため、織り手たちは大阪の堺などに疎開するが、戦乱が治まると、彼らはもとの場所に戻り、織物業を再開。そこが応仁の乱の西軍の本陣跡であったことから、「西陣織」の名が付き、その名とともに織物の質の高さが世にとどろくようになった。
なお、奥に織機を入れる吹き抜け空間(機場)を持つ西陣特有の町家「織屋建て」がいつごろ成立したのかは定かでない。平安時代から明治初期まで、「高機(たかはた)」という、二人がかりで織る背の高い織機を使っていたため、このような造りになったのだろうか。
———昔は、機場の地面の土を深く掘って、織機を据えている家も多かったですね。そうすると土の中の湿気がうまい具合に出て、糸が締まるんやそうです。冬ならストーブに水を入れたお鍋をのせて、蒸気を絶やさない織り手さんも多かったですよ。
表に建て付けられた「糸屋格子」も美しい。糸や織物の色を見るのに光が差し込むよう、「切子」と呼ばれる上部を切り取った短い棒を規則的に組み込んだ格子になっており、切子が4本なら織屋、3本なら糸屋、2本なら呉服屋というように、その本数を見ると同じ「いとへん」(繊維業のこと)でも、どの職業かがわかるようになっている。
———西陣は昔からものづくりをしてきたまち。その歴史的背景から、この地域にアーティストの方が住まわれるようになったのでしょう。
平安時代から職住一体だった西陣の町家。1,200年の歴史をひもといてみると、ひょんなことがきっかけで始まった西陣の町家利用も、なんだか必然の流れだったように思えてくる。西陣全体がひとつの織物工場として機能してきたように、このまちがひとつのミュージアムのようになる日も来るかもしれない。