3)予想外だった“町家フィーバー”
京都新聞に記事が出た日から、小針さん宅の電話は鳴りっぱなしになった。そのほとんどが「自分も町家に住んでみたいが、どうすればいいか」という問い合わせ。電話は少ない日で一日20〜30件、多い日だと60件を越える日もあった。
———正直、仕事になりませんでした。こりゃかなわん、と佐野さんに相談し、妙蓮寺で説明会を開くことにしました。電話がかかってきたら、日時と場所だけ伝えて、とりあえずそこに来てください、と。
説明会にはざっと70人が集まった。小針さんがどのように空き町家を探し歩き、大家さんを探しあて、どのような工事を経て入居に至ったかを話した。会場には、なぜか神奈川、静岡、神戸、大阪など、京都以外の出身者の若いアーティストの姿が目立った。
———京都市内のひとは少なかったですね。その頃、町家は、京都のひとにとって“直すのに手間もお金もかかるボロ家”というイメージが強かったんです。町家という呼び名自体も、おかかえの庭師や大工がいるような、よほど立派なお屋敷でないと町家とは呼ばなかった。僕も「あんたとこ、どこが町家やねん」なんて心ない電話もいただきましたよ。僕の口からは一言もそんなこと言ってませんけどね(笑)。でも、お金はないけどやりたいことはある若いアーティストの目には、町家は、自分で直せて、生活しながら作品がつくれて、家賃も安くて、と理想の条件が揃った“アトリエ兼住居”に見えたんでしょう。
その後も説明会は続き、3回目の開催時には、その説明会が朝日新聞に取り上げられることになった。記者に「会の名前は何ですか」と訊ねられて、とりあえず「西陣活性化実顕地をつくる会」と命名(のちにネットワーク西陣に改名)。そうこうしているうちに、「空き家を見つけてきました、どうすればいいでしょう」と参加者が相談にくる。一緒に大家さんを訪ねてみると、やはりその申し出にいぶかしがられた。
———若い子が、おたくの持ってらっしゃるボロ家に住みたい、と言い出すだけでも怪しいのに、自分できれいに直します、しかも改装費は自分で出します、と言っている。怪しい以外の何者でもないですよね(笑)。彼らには、僕らのことが書かれた新聞記事のコピーを持たせたりして、とにかく怪しい者ではありません、ということを伝えるのに腐心しました。そうして、版画家や陶芸家のアーティストの子たちが3人、入居しました。
実際にアーティストが住み始めると、今度はテレビ、ラジオ、雑誌の取材がひっきりなしに。NHKの全国放送に取り上げられると、問い合わせはますますヒートアップした。
———そのようすを見ていた大家さんから、「あんなふうにきれいに住んでもらえるんやったら、うちも住んでほしいんやけど……」「うちも町家といえるのか見に来てもらえないか」といった申し出も増えてきました。そうして徐々に空き家の情報も入ってきて、僕らが借り主と持ち主の仲を取り持つ機会も増えていったんです。
そんなある日、区役所から連絡があった。なんと「最近、若いひとが上京区に住民票を移しているが、何か新興宗教の拠点でもあるのか」と聞かれたのだ。1995年は、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった年だった。うそのような本当の話だが、当時の西陣の町家フィーバーぶりが、いかにすごかったかを物語るエピソードである。
———4年間ほど、二人で手弁当で、電話を受けてはお世話をして、ということを繰り返していましたが、お互いに本業がありますから、さすがに大変になってきて……
1999年、佐野さんと小針さんは「町家倶楽部ネットワーク」というホームページを立ち上げる。そこで、空き町家の物件情報や入居までの手続きを公開し、今後は借り主と貸し主の縁結びも、すべてメールでやりとりしていくことにしたのだった。