2)「映画体験」するための場所
出町座の前身は、2013年から2017年7月末まで元・立誠小学校で開かれていた〈立誠シネマプロジェクト〉である。京都の繁華街、木屋町にあった元・立誠小学校は1992年に小学校としては閉校したが、まちづくりに関わる地元有志によって「立誠・文化のまち運営委員会」が結成され、まちの文化活動の拠点として様々なイベントが開催されていた。この場所は国内で初めてシネマトグラフの試写実験に成功したことから「日本映画原点の地」とも称されており、映画文化との縁が深かったことから、2013年から〈立誠シネマプロジェクト〉がスタートした。京都市が共同主催者ではあるが、プログラムの中身と実質的な運営は田中さんが所属するシマフィルム株式会社が担っていた。プロジェクトを担った田中さんは、教室だった空間を映画鑑賞用に設えて上映スペースとし、さらに俳優や脚本、プロデュースなどを学ぶスクールと合わせた〈立誠シネマプロジェクト×シネマカレッジ京都〉を起動させる。
——京都の小学校は番組小学校といって地域住民の方々が資金を出し合って建てたものなので、地域の人たちの愛着が強い。なのに学校が閉校した途端、規制が外れて周りが風俗街になってしまった。そこに地元の人たちが文化的な活動を自主的に始めていたところに、僕らは学校に近いかたちでの文化活動を継続的に開催するかたちでのプログラムを提案したのです。(田中)
〈立誠シネマプロジェクト×シネマカレッジ京都〉では、上映作品の監督や俳優によるトークイベントを開催したり、シネマカレッジの受講生が本格的な映画制作を行うなどの、映画を“見る”だけでなく、学び、つくり手となる過程をも体験できる“場”として成長してきた。だが、元々期限付きの条件ではあったが、京都市が元・立誠小学校を民間事業者に委ねる決定をし、2017年度で撤収せざるを得なくなる。田中さんは、京都市に別の休眠施設での再開を打診したが芳しい返事が得られなかった。業を煮やした田中さんは、シマフィルムの社長である志摩敏樹さんと話し合いを持ち、「うちの単独事業としてやる」という結論に至った。
——経営判断としては勝負だなと思いました。この時代に新しく劇場をつくるというのは、非常にリスクがあるからです。それでも舵を切ったのは、うちの社長も映画人だから、としか言いようがない。シマフィルムは、舞鶴八千代館(舞鶴市)と福知山シネマ(福知山市)という2つの映画館を持っていますが、これもシネコンも進出してこない田舎町で昔からあった映画館の経営を引き継いだんです。社長はまちに映画館がなくなるのはダメだろうって考えるひとなんです。(田中)
もちろん田中さん自身も立誠シネマでの試みを継続させたいと思い続けていた。会社の承諾を得て、2017年に入ってすぐに場所探しを始めたが、なかなか思うような物件が見つからない。不動産会社をめぐり、いくつもの候補から見つけたのが、桝形商店街の中程にある元薬屋の建物だった。
——場所の決め手は、このエリアが持っている雰囲気ですね。この商店街のなかだったということが大きいです。「映画を観る」だけだったら、今は間違いなく街中のシネコン(シネマ・コンプレックス)が一番いい環境なんです。シネコンは、画面の大きさ、投影機材、音響、椅子……大きい資本のお金をかけて設備投資してますから。僕はシネコンを否定するつもりはないんですが、映画にはそれ以外の価値があるんじゃないかとも思っています。表現が難しいのですが、「映画を見に行く」という行為、そういう文化的な行為があと数年で死んでしまうんじゃないか。僕らは、映画を見ている時間の前後までも含めた「映画を見に行く」という体験をつくっていきたい。立誠シネマでも、あの建物のなかに入ってギシギシと音のなる廊下を歩いて、映画を観ることが大事だった。寒かったり、椅子が硬かったりといった不満もあるけど。もう一度行きたいというひともいるだろうし、二度と嫌だと思うひともいるでしょう。どちらにせよ、記憶には残る。出町座なら駅やバス停から商店街のアーケードに入って八百屋や魚屋の前を通り、そのざわめきを感じながら出町座にたどり着く過程も含まれている。僕らがつくりたいのは、映画を見る前後のプロセスも含めた映画体験の場なんです。(田中)