1)控えめなデザイン?
これまでの3回を、多木さんの言葉を引きながら振り返ってみよう。
1950年代、60年代から活躍を続けたプロジェッティスタ、アキッレ・カスティリオーニのミラノのスタジオを訪ね、さらに彼と協働していたジャンフランコ・カヴァリアさんにトリノのスタジオで話を伺った。
彼らのプロジェッティスタとしてのデザインに対する態度は一貫していた。人と環境に配慮しつつ、創造のプロセスを重視し、じっくりと時間をかけて、社会に「本当に必要なもの」を生みだした。彼らは「単なるデザイナーではなく、社会や文化との関係性を重視した創造的実践者」だった。

アキッレ・カスティリオーニのスタジオ。亡くなるまで50年以上にわたって、このスタジオに通い、デザイン活動をつづけた

ジャンフランコ・カヴァリアさんのスタジオ。アキッレと協働したプロジェクト多数。 下は鏡の一種だが、映りすぎないように和らげてある。マテリアルや半加工品に関心があり、徹底して素材を学んでからものをつくる
消費主義社会の方向性とは対極にあったプロジェッティスタたちは、その後、イタリアでもほぼ忘れられてしまう。しかし、20世紀の終わり頃に、彼らの価値観を引き継ぐような人たちがイタリアに出現した。カルトゥージア出版のパトリツィア・ゼルビさんやラボラトリオ・ザンザーラのジャンルカ・カンニッツォさん、そしてアレッサンドリアの地区の家のファビオ・スカルトゥリッティさんたちだ。
絵本の出版、プロダクト、まちづくりという異なるジャンルで、子どもや障がい者、移民や難民など社会的な弱者とともに、それぞれのプロジェクトに取り組んできた。必要な時間をかけて、ものと人、人と人、あるいは人と場所との関係性を育みながら、ものづくりや地域づくりをすすめてきたのだ。
あらためて、多木さんに今回訪ねた方々の取り組みについて伺ってみた。
―――「デザイン」は非常に合理的に思考して整理することとして多くの人に使われるけど、問題は目的だと思うんですよね。人間を大事にするほうへ向かっていくのか、それとも企業の利益のためにその思考を使うのか。それは大きく違うでしょうね。
カルトゥージアのパトリツィアさんにしてもザンザーラのジャンルカくんにしても、ものすごくクオリティにこだわるでしょう。どちらも高く売りたいからではなくて、クオリティが高くないと伝わらない、という思いがすごくあるんじゃないかな。
パトリツィアさんの場合は、本当にいいものをつくらないと子どもにとっていいものにならないという思いが強くある。彼女は一流の絵本作家と一流の絵本画家しか使わないんですよ。けれど、それを作家の作品として送り出すわけではなく、あくまで子どものために一流の力を使う、という目的がはっきりしているんです。こういう作品のつくり方は非常に「控えめ」なんですね。
ザンザーラのジャンルカくんにも同じことが言えます。デザイナーである自分が絵を描いてもいいんだけど、商品の下絵になったスケッチは(知的障がい者施設の)利用者のものです。彼が絵を描くということはザンザーラの商品では一番ないことで。あの場所に通ってくる利用者や障がい者たちの手が生みだしたものを彼は助けて、アレンジして製品に育てる役に徹するじゃないですか。

カルトゥージア出版とパトリツィアさん

ラボラトリオ・ザンザーラとジャンルカさん
彼らのふるまいは、他者に対して誠実な創造力の使いかた、ともいえるだろうか。アレッサンドリア地区の家のファビオさんも、その態度が徹底していた。
———ファビオさんは分け隔てなく誰とでも付き合えるし、本当に誰の話でも聞く。行政ともやり取りしないとできないことをしているので、仕事のスキルもすごくあるんですけど、やっぱり僕は彼の隣人に対する態度の深さが一番すごいと思いますね。地区の家に寄ってくる人たち誰にでも手を差し伸べるところが基本にあって。
地区の家はイタリアにいくつかあるんですけど、それぞれヒストリーが違うんです。ファビオさんたちのところは特別ですが、ああいう場所がイタリアに、この10年ちょっとの間に、ほぼ同時に何十軒もできているんですよ。
ファビオさんの場合はまちづくり、地域づくりで、スケールは大きいが、一歩一歩、仲間とともにまちをゆっくり変えている。自分が前に出るのではなく、みんなで実現する「控えめな」デザインだ。

アレッサンドリアの地区の家とファビオさん。難民の家探しがうまくいったと報告を受けていた